キリストの光に照らされて、美しく生きよう

<イースター礼拝:11時>
宮井岳彦副牧師 説教要約
ペトロの手紙一2章11,12節
2025年4月20日

Ⅰ. 私の愛する寄留者、滞在者である皆さんへ

「愛する人たち」と今日の聖書の御言葉は語り始めています。すてきな言葉です。主イエスの弟子であるシモン・ペトロの名が付された手紙です。ペトロの心がこの一言に込められています。「愛する人たち」。約2000年前に初めてこの手紙を受け取って読んだ人たちへの愛がにじみ出ています。しかしそれだけではなく、あれから2000年経ってこの手紙を受け取り読んでいる私たちにも、ペトロは「愛する人たち」と語りかけてくれています。
愛する教会の仲間に向かって、ペトロは言います。「あなたがたはこの世では寄留者であり、滞在者なのです」と。寄留者、滞在者。面白い言葉です。移民や在留外国人、旅人ということでしょう。皆さんは寄留者であり、滞在者です。そう言われると、突然他人事のように聞こえてしまうかもしれません。私は日本で生まれて日本で育っている。あまり関係ないかな、と。しかしどうぞそう決めつける前に、このシモン・ペトロという人に起こったイエス・キリストの物語に耳を傾けていただきたいのです。それは、あなたご自身に起こった出来事でもあるのですから…。

Ⅱ. シモン・ペトロを包む物語

4月6日の日曜日に、私はキッズチャーチの小学校低学年の子どもたちと一緒に礼拝を献げました。聖書のお話をしました。ペトロさんのお話でした。こんな話です。
いわゆる「最後の晩餐」でのこと。主イエスさまがシモン・ペトロにおっしゃいました。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願い出た。」そして更に言われるのです。「ペトロ、言っておくが、今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」(ルカ22:31〜34)。しかしペトロはそれを力いっぱい否定して、ご一緒であれば牢でも死でも覚悟していると断言しました。
ところが、その夜のうちにイエス様がおっしゃったとおりになってしまった。イエス様は食事の後、別の場所でお祈りをしているときに逮捕され、その夜のうちに裁判にかけられます。一方的なひどい裁判でした。ペトロは心配で裁判が行われていた屋敷に忍び込みますが、そこで女中に見つかり、「この人も(イエスと)一緒にいました」と言われた。ペトロは力の限りに否定した。同じようなことが更に二度繰り返された。結局、ペトロはイエスを知らないと三度言い張った。すると鶏が鳴いた。イエス様がおっしゃったとおりになったのです。
ペトロは怖かったのでしょう。自分を守るために、愛する人を裏切りました。見殺しにしたのです。
このペトロという人物は、イエスさまのお弟子の中でもおそらく一番親しまれている人だと思います。多くの人が親近感を抱いている。ペトロのしたことやしゃべったことは他人事とは思えないところがあります。私も抱えている弱さをこの人も抱えているし、この人の赤裸々な失敗の姿が私に重なる。そんな思いにさせられる人物です。
私たちにもあるのではないでしょうか。怖いときに自分を守るために愛する人を裏切ってしまうことが。わが身のかわいさのために他人の犠牲に目をつぶってしまうことが。心の中でどんなに立派な言い訳をしても、実は自己保身でしかないということが。ペトロが主イエスを裏切ったのは、そんなありふれた、つまらない理由です。誰でも持っている身勝手のためにイエスを捨てたのです。だから恐ろしい。ペトロは私たちの一人、私の分身のような存在です。
ペトロは、このときある宗教にどっぷりとはまり込んでいました。それは、「死んだらお終いよ教」です。「結局は自分が一番大事です教」です。「長いものに巻かれるのが現実的な生き方なんだ教」です。それは、死の物語が生み出す宗教です。ペトロは自分の身の危険に直面し、死の物語にのみ込まれて、イエスを裏切りました。イエスを捨てました。鶏の鳴き声を聞いて我に返った彼にできたことは、泣くことだけでした。
ところがそんなペトロがもう一度立ち直ることができたのです。立ち直れたからこそ、この手紙を書いている。どうして立ち直ることができたのか?理由は一つだけです。ペトロはイエスを裏切り、イエスは十字架にかけられました。しかし三日の後、イエスは死者の中から復活させられた。キリストは復活した。だからペトロは立ち直ることができた。それ以外の理由は考えられない。
今日はイースターです。イエス・キリストの復活を、今私たちは祝っている。ペトロを立ち直らせたキリストの復活を祝っている。キリストは死者の中から復活しました。ペトロを支配していた「死んだらお終いよ教」は誤りでした。
復活したイエス・キリストは、再びペトロのところへ来てくださいました。イエスはペトロのところに来て、他の何でもなく、ペトロの愛をお求めになりました。ペトロは「結局は自分が一番大事だよ教」の信者でしたが、キリストが来てくださって、実は神の愛と赦しという新しい世界が始まっていることを知りました。
イエス・キリストは復活してペトロを立ち直らせ、新しい旅に送り出しました。あの最後の晩餐の席で、主イエスはシモン・ペトロにおっしゃっていました。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願い出た。しかし、私は信仰がなくならないように、あなたのために祈った。だから、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:31-32)。ペトロはこれまで自分を一番大事に生きてきました。ところが今や、「兄弟たち」のために生きはじめました。もはや長いものに巻かれることを現実的な生き方とはせず、キリストが私にしてくださったように私も他の仲間たちを愛する、という新しい人生に出発しました。
シモン・ペトロ。この人は復活したキリストと出会って新しい旅を始めました。キリストと共に歩む旅です。キリストの復活の命に照らされる旅です。神を愛し、友を愛することを現実的な生き方と信じる旅です。そういう旅をこの世界で歩んでいく。死の物語に覆われたこの世界で、天の国に向かう旅人として生きている。この世界では寄留者、滞在者です。
私たちも同じ旅をしています。この世界では、皆さんは寄留者であり滞在者です。キリストと共に生きる旅路を歩んでいます。

Ⅲ. キリストの光に照らされて、美しく生きよう

そういう旅人の生き方を、ペトロは12節で「立派に振る舞う」と表現しています。この「立派に」という言葉ですが、辞書を引くと最初に出てくる意味は「美しい」です。美しい振る舞い。すてきな言葉です。私たちは、キリストの復活の光の中で美しく生きることができる。
美しく生きる。いつでもこぎれいな身なりをして、すてきに整えられた小物に囲まれ、おしゃれな家に住む、という話ではありません。私たちがすばらしい理想に燃える「意識高い系」だから美しくなれる、というのでもない。キリストの復活の光が、私たちの振る舞いを美しくする。
キリストの復活という命の物語の中に自分を発見するとき、私たちの生き方は美しくなります。この世界を支配する死の物語から解放されるからです。これは、皆さんを包み込んでいる神さまの物語です。
キリストは、死者の中から復活させられました。あなたを死の物語から取り戻すためです。
キリストは、あなたをご自分の愛の光で照らしておられます。あなたを、隣人を愛する喜びに生かすためです。
キリストは、今日もあなたと共に歩んでおられます。あなたがこの世界で生きる人々の望みになるように。あなたを美しく装うキリストの命の物語がもう始まっている。今日、ここで、この礼拝で!  
キリストの光に照らされて、美しく生きていきましょう。