旅の途中を楽しみたい

和田一郎牧師 説教要約
創世記12章1‐5節
ヨハネによる福音書4章6-9節
2025年4月27日

Ⅰ. はじめに

 かつて東京と神奈川の境にある小さな山に、教会のグループで登りました。同行していた一人の方の体調が悪くなったので、その方と二人で山頂に向かうのはやめて山腹で一緒に休むことにした。いつもは「山に行く=山頂に行く」と考えていましたが、山道の脇に腰を下ろして楽しい会話を楽しみました。そこで思いました、「山」は広く深い。1日や2日では見ることができない豊かさがある。頂上に辿り着くだけでは知りえないものがある。それまでは通過点でしかなかった登山道の道々も山の一部です。道の途中を楽しむ。それがいいのだと思いました。山登りは非日常で「旅」の要素が詰まっています。旅の途中を楽しみたい。人生の旅路も同じ、そのようなことを考えるようになりました。
今日は歓迎礼拝です。聖書はあまり読んでいない、教会に行くことがないという方々を歓迎いたします。そのような方にとって「信仰」というのは堅苦しいイメージがあるかも知れません。まじめに正しく生活しなければいけないと思われている方もいるのではないでしょうか。しかし、今日お話しするのは、信仰生活とは旅のようなもので、旅立つことで知ることができる、出会うことができる、喜びを感じられることがあるという話です。ぜひ、信仰生活という旅の楽しみを知っていただきたいと思いました。

Ⅱ. 信仰の旅人アブラハム

旧約聖書には、「信仰の父」と呼ばれるアブラハムの生涯が記されていいます。アブラハムの生涯を通してみると、信仰とは旅立つことだということを思わされます。それを象徴する言葉が今日朗読した聖書箇所です。アブラハム(当時はまだアブラムという名でした)は神様の語りかけを聞きます。
(創12:1,2)「あなたは生まれた地と親族、父の家を離れ私が示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民とし、祝福し あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福の基となる。」アブラハムはこの時75歳でした。75歳といっても彼は175歳まで生きたので今の感覚の75歳とは違うのですが、そうはいっても若い年代ではありません。すでに一族を率いる大黒柱となっている人です。気ままな判断はできません。分別のついた大人であったアブラハムが神様のみ言葉によって、住み慣れた故郷を離れて、神様に「行きなさい」と呼びかけられて旅立ったのです。しかも、アブラハムは行き先を知らずに旅立ったのです。どんな旅路になるのかは神のみがご存知である。それがアブラハムの旅立ちであり、アブラハムの信仰の旅が始まったのです。
信仰の旅立ちとは、自分のもっている価値観を置いていくことです。自分で作った自分を置いていくことです。私たちの信仰の本質は、このアブラハムに倣って、神様のみ言葉によって「自分」という自我を捨てて、旅立つことです。不安はあります。しかし、神を信頼して出発するのです。2節に「あなたは祝福の基となる。」とあります。「私が示す地に行きなさい。」と言われた、その旅の先では祝福があるというのです。さらに「あなたは祝福の基となる。」と言われる。これはアブラハムがイスラエルの民の「信仰の父」となった、イスラエルの信仰の源流になったという意味ですが、それだけではなくて信仰をもった者は、それぞれの持ち場で、活躍の場で祝福の基になる、そこから祝福が広がっていく者になる。それがキリスト教がもつ、信仰者の在り方であり、クリスチャンへの祝福です。
「あなたは祝福の基となる。」という神様の約束の言葉が、なければ旅立つことはできません。神様の約束を信じるからこそ、旅立つことができる、古いものを置いていくことができる、新しい自分が待っている、新しい祝福を期待できるのです。
ですから信仰とは旅です、冒険と言ってもいいでしょう。信仰とはチャレンジを与えられるのです。私は牧師になると決めた時、大和の家を引き払って、千葉にある東京基督教大学に4年間行きました。40代後半で仕事を辞めて大学生になった時、まさに冒険の始まりでした。家から通っていては得られない恵みがありました。
アブラハムのように、信仰とは未知の世界に踏み出していくことです。前もって定められているレールの上を走っていくようなものではなくて、信仰の歩みは何が起るかは全く分からないけれども、しかしこの旅路の先に神様の恵み、祝福が必ず与えられることを信じて一歩を踏み出していく、それが私たちの信仰であり、信仰者として生きる生活とはそういう旅立ちの繰り返しであると言えます。

Ⅲ. 旅の途中で

私たちの信仰生活の模範はイエスさまです。イエスさまの宣教活動は旅でした。その目的は旅での出会いです。旅で出会った人々に多くの癒し、奇跡をなしてくださいました。ある時イエス様は旅でサマリアという地域を通られました。(ヨハネ4:6,7)「イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。サマリアの女が水を汲みに来た。イエスは、『水を飲ませてください』と言われた。」
この女性はサマリア地方にあるシカルという町に住んでいました。彼女はすでに5回結婚していました。彼女がなぜ五回も結婚しなければならなかったのか分かりません。5回の結婚に疲れた彼女は、いま正式の夫ではない男といっしょに暮らしていました。
これは当時の社会では許されないことでしたから、彼女は村人との付き合いも避けて生活をしていたのです。大勢の人たちが水汲みにくる涼しい朝の時間帯を避けて、最も暑さの厳しい時間帯をわざわざ選んで、こっそりと水汲みにきていたのです。
その日も女性は一人きりで井戸にやってきました。彼女が井戸につくと、一人の旅人が静かに腰をおろしていました。服装からしてユダヤ人だと分かりました。彼女は気にせず水を汲み、黙ってかめに注ぎました。すると、この旅人は彼女に語りかけました。「水を飲ませてください」と。彼女は驚きました。
そのころユダヤ人とサマリア人は数百年にわたる争いで互いに憎み合っていました。お互いに口を聞くなど、とうてい考えられないことでした。しかも当時の社会では人前で男性が女性に話しかけることを禁止されていました。ですから彼女は二つのことで驚いたのです。彼女は言いました。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」
彼女に「水を飲ませてください」と言ったのは、旅していたイエス様でした。イエス様は彼女に答え、「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水をください』と言ったのが誰であるかを知っていたならば、あなたのほうから願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう。そうすれば、その人はあなたにけっして乾くことのない生きた水をあげたことだろう」と言います。彼女は「ぜひ、その水を飲ませてください。もう二度と人目を避けながらここに水汲みに来なくていいように!」と願うのですが、イエス様は「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言いました。彼女が「私には夫はいません」と答えると、イエス様は「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたの言ったことは本当だ」と、彼女の身の上をずばり言い当てます。
女性は、「この人は預言者に違いない!」と驚きました。彼女は「私は、キリストと呼ばれるメシアを待っているのです」と自分の信仰を告白しました、すると「あなたと話をしているこの私が、それである。」と告知します。彼女は驚き、水瓶をそこに置いたまま、町に飛んで行きます。そして、「私のことを全部言い当てた人がいます。この方がメシアかもしれません」と人々に告げたのでした。
町の人々は、何よりも彼女のこの変化に驚きました。それまで自分たちと目を合わさないように生活していた女性です。自分たちが蔑んできた女性が目を輝かせながら「私は救い主メシアにお会いしたのかも知れない!」と堂々と語りだしたのですから。人々は彼女の変化に驚き、そして彼女を変えたイエス様に驚きました。

Ⅳ. 真理との出会い

サマリアの女性の人生は、イエス様と出会ったことから変わっていきました。イエス・キリストを主と信じることによって、信仰の旅が始まりました。
暗い過去を背負っていました。誰も信じられない、自分しか信じられない、いや自分さえも信じられなくて途方に暮れて、人目を避けて生きたいたけれど、古い自分を置き去って、神様を信頼する新しい自分を生きる生活がスタートしたのです。この時から信仰生活という旅がスタートして、神様に祝福される生活が始まりました。そして、彼女はこの町で祝福の基となって町の人々へと、その祝福が広がっていったのです。
 イエス様とサマリアの女の出会いは偶然ではありませんでした。4節に「サマリアを通らねばならなかった。」とあります。実はサマリアの女と出会ったのは「ねばならなかった」のです。偶然ではなくてイエス様は意図的に女と出会ったのです。イエス様からすればこの出会いは必然です。この女性と出会って、信仰の道へと導く必要があったのです。
そして、この高座教会の礼拝に来られた方も必然です。イエス様からの「ねばならなかった」という招きがあるのです。それは教会員のように毎週来られている方だって同じなのです。一週間の生活の中で霊的な渇きがあって来られたのです。「水を飲ませてください」と来られたのは偶然ではありません。信仰生活というのは、その繰り返しです。
みなさんの心の底に、水を飲ませて欲しいという渇きがあるはずです。罪びとである人間にとって渇きのない人はいません。命の水は、人間の中からは沸いてこないからです。霊的な渇きがあります。
「いや、神なんていらない」。という人は本当に渇いていると思います。是非、人生の旅路の中で、真理であるイエス・キリストと出会って、命の水を飲み続けていただきたいと思うのです。
イエス様はおっしゃいました。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」(ヨハネ福音書14章6節)
この「信仰」という、真理の道を歩む旅路を楽しんでいただきたいと願います。
お祈りをいたします。