心は燃えていた

和田一郎牧師 説教要約
アモス書9章11-15節
ルカによる福音書24章13-35節
2025年5月4日

Ⅰ. 暗い顔をして歩く二人

 二人の人がエルサレムを出て、エマオという村に向って歩いていました。二人はイエス・キリストの弟子でした。エルサレムからエマオという村は、60スタディオン離れていました。約11.5五キロです。二人は、イエス様の弟子としてエルサレムにいましたが、イエス様が十字架で死んで葬られた出来事があったことで、自分の家のあるエマオの村へ向かっていたのです。彼らはエルサレムで起こった出来事について話し合っていました。その二人に一人の人が道連れになります。15節には「イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩いて行かれた。」とあります。けれども彼らには、それがイエスだとは分からなかった。「二人の目は遮られていて」分からなかったのです。
イエス様は二人に尋ねます。「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」。二人は暗い顔をして、「エルサレムに滞在していながら、ここ数日そこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか。」と言うのです。「あなただけがご存じないのか」と。つまりエルサレムにここ数日いた人であれば、知らない人はいないほどイエス様の逮捕、裁判、十字架の出来事が人々を動揺させていたのです。二人は「ナザレのイエスのことです」と言って話を始めました。「この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした」と。この二人はイエス様を力ある預言者だと期待していました。それなのに、祭司長たちが死刑にするためにローマ当局に引き渡して十字架の死刑にされてしまった。さらに二人は「私たちは、この方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」と期待していた思いを打ち明けます。二人はナザレのイエスが、ローマの圧政からユダヤを解放してくれると、自分たちの現状を打ち破ってくれると、そのような現実的な救い主として、イスラエルを解放してくださる人だと信じ期待してついていったわけです。けれども、自分たちユダヤの宗教指導者たちがローマ当局に引き渡して、イエス様を十字架刑にしてしまった。
彼らが暗い顔をして話さざるを得なかったのは、そういうわけでした。期待して、エルサレムまでついていったイエス様が、むざむざと当局に捕まって殺されてしまった。また希望のもてない暗い生活が続いていくのです。彼らは絶望しておりました。さらに不思議なことが起こったと、彼らは言いました。仲間の女性たちがナザレのイエスの遺体を収めていた墓に行くと遺体は見つからなかった、そのうえ天使が現れて「イエスは生きておられる」と言った。その知らせを聞いた他の弟子たちも墓に行ってみると墓は空だった。それは彼らにとって理解できないとても不思議な出来事でした。二人の弟子は、彼らの心を打ち明けて、自分たちが望みを失ったこと、自分たちが理解できなかったことを伝えたのです。
彼らが自分たちの思いを、じっくりと話し終えるのを待ってから、イエス様は語りはじめました。25節「ああ、愚かで心が鈍く、預言者たちの語ったことすべてを信じられない者たち、メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか。」と言うのです。「あなたたちは預言の言葉を信じていないのではないか?」と切り出したのです。そして、「聖書全体にわたり、ご自分について書いてあることを解き明かされた。」のです。
 ここでいう「聖書全体」というのは旧約聖書のことです。それらは「ご自分について書いてある」つまり、旧約聖書はイエス・キリストについて書かれていると。旧約聖書にはイエス・キリストという名前は一つもでてきません。しかし、創世記の物語も、モーセやダビデの物語も、詩編や預言書の言葉も、すべては救い主であるメシアの到来を語っているのです。人間が重ねてきた罪にまみれた物語を通して、メシアの必要性を、メシアという救いの道を与えてくださる神の愛を旧約聖書全体を通して指示していることを、イエス様は解き明かしてくださいました。そして、そのメシアは苦しみを受けて栄光に入るという神の約束の出来事を説き明かしてくださったのです。
彼らは目的地のエマオに近づきました。弟子たちは連れ添った人に29節「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いています」と言って、無理に引き止めました。そこで、イエス様は家に入られました。
食事の席に着いたときに、招待されたイエス様はパンを取りました。普通でしたら家の主人がおもてなしをするので、家の主人がすることです。しかし、イエス様はパンを手にして、賛美をされました。そしてパンを裂いて、二人の弟子に分け与えてくれた。その声、その祈り、その仕草を見て二人は、「主よ、あなたではないですか!」と分かったのです。心の目が開かれてイエス様だと分かった、その瞬間に、イエスの姿は見えなくなりました。二人は悟ったのです。墓から戻ってきた女性たちが聞いた「イエス様が復活した」という天使の言葉は本当だったと。そうか、だから「道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていた」のかと。聖書から、創世記から預言書に至るまで話してくれていたときに、自分たちの心は燃えていたではないか、その権威ある言葉はイエス様の言葉に他ならないではないか。復活のイエス様に出会った二人は、エルサレムに向って11.5キロの道のりを走って戻っていった。すると他の弟子たちもイエス様に出会ったと言っている、自分たちも会ったと話し合った。それがこの箇所の出来事です。

Ⅱ. 自身を隠して近づいてくださる主

私たちは、この聖書箇所を読んで、どんなに落ち込んでいても、暗い顔をして絶望の中にあっても、今も生きておられる復活のイエス様は近くに来てくださることを知ることができます。何気ない日常生活において、さりげなく、気が付かないほど自然な形で、さまざまな形で「何かあったのか?どうしたのか?」と語ってくださるということです。そして、心にある思いを一緒に歩きながら聞いて下さる方なのです。
この二人の弟子は、12人の使徒とは違う弟子たちでした。クレオパという名前はここにしか記されておりません。イエス様の宣教の旅に同伴していたかもしれませんが、12弟子ほど近い存在ではなかった、向き合ってじっくり話をするということは無かったかも知れません。しかし、復活されたイエス様は、いつでもどこでも、広くあまねく誰とでも向き合って下さるのです。誰も一人ぼっちにさせることがない、孤独になることがないように、私たちの歩く速度に合わせて、ご自身が救い主イエス・キリスト、その方であることを隠して、近づかれます。それは通りすがりの助け人かもしれませんし、突然やって来た古い友人かも知れません。厳しいことをいう苦手な人かもしれないのです。見た目では分からないのです。エマオの二人も、すぐに「私だ、イエスだ」と言われてたら、気軽に話せたかどうか分かりません。誰だか分からないように近づいて「いったい何を心配しているのか」と言われたので、 二人は心にあることを打ち明けることがでたのです。二人は気がねなく、自分たちが期待してきたこと、願ってきたこと、しかしそれが挫折した悲しみ、それを打ち明けることができたのです。復活されたイエス様には何も隠す必要はありません。すべてを打ち明けることができる。
そして、「ああ、愚かで心が鈍く、預言者たちの語ったことすべてを信じられない者たち」と、厳しい言葉で導かれます。弟子たちの問題点は、旧約聖書の預言の言葉を忘れていることです。二人はユダヤをローマ帝国の支配から解放してくれる救い主だと期待していたのに、十字架にかかられて死んでしまったことに絶望していました。「死んだらお終いだ。もうエルサレムにいてもしょうがない。エマオの家に帰ろう」。そういう二人でした。しかしイエス様は「メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか」と語りかけました。

Ⅲ.  死は復活という栄光の入り口

彼らが絶望したのは、十字架の死を人間の側から見て理解しようとしたからです。死んだらお終いだと絶望したのです。しかし、イエスは言われます。「メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか」、つまり、十字架の死はメシアが苦しみを受けて栄光に入るというその苦しみだったはずである。だから十字架は、その先にある復活という栄光の入り口だ。そのことを旧約聖書の預言者たちは語っていたはずではないか、と正しい教えへと導いてくださるのです。
神様は私たちの罪や不信仰を、そのままにはなさらないのです。ふさわしい形で、ふさわしいタイミングで不信仰の罪からの解放してくださるために、語ってくださいました。あなた達が絶望していた十字架の死は、復活という栄光の入り口ではないか。キリストは、すべての人の罪を引き受けて十字架で贖ってくださった。そして、すべての人が永遠の命を得るために復活される。神様は、その出来事の真ん中に、この二人を置いてくださいました。彼らを証し人として、心を燃やして遣わしていくためです。

Ⅳ. 「お泊まりください」と心に迎える

二人はエマオの村に着いた時、イエス様を引き留めました。「一緒にお泊まりください」と呼び止めました。
聖書の説き明かしを聞いて心を開いたのです。これは私たちにとって信仰をもった時の物語と重なると思うのです。信仰を持つ前、私たちは人間的な思いから、死んだらお終い、イエス様も死なれたからお終いだと、自分の経験、人間的な思いで受け止めていました。しかし、「福音」とは、復活の主が出会ってくださり、私たちの罪を受け入れてくださり、聖書の説き明かしである神の言葉が聞かれ、信仰が与えられて受け取ることができるのです。そのときまで私たちは、そばにいてくださったイエス様に気づかないのです。けれども、イエス様はあきらめずに、一緒に歩調を合わせて、自分の身分を隠して働きかけてくださいました。熱心に私たちの話を聞き、私たちを愛し、福音を告げてくださいました。それが自分のものとなったときに、心の目が開かれて「お泊りください、家にお入りください」と、心の中に入っていただくということです。 
ですから、エマオ途上のできごとは、イエス様と出会った皆さん一人一人の物語です。最初は目が遮られてイエス様が見えなかった、それでも一緒に歩き続けてくださり、聖書を説き明かしてくださり「お泊りください、お入りください」という言葉を待っていてくださいました。そうして、心の目が開かれるのです。心の目を開かれた者は、自己中心という自分の家から、方向転換して、復活の主を信じる仲間のもとへ行き、神の家族の輪に加わるのです。

Ⅴ. 説教があって聖餐がある

イエス様は二人の弟子とエマオの家に入られて、「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、祝福して裂き、二人にお渡しになった。」とあります。イエス様が招き、パンを分け与えて下さる食事、それは礼拝における「聖餐」を現しています。イエス様が、十字架につけられる前の晩の「最後の晩餐」において「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われた、イエス様のお姿を思い起こさせます。これが、今行っている礼拝の中で行われる聖餐の起源です。さらに、復活して今も生きておられるイエス様との「出会い」を体験するのが聖餐です。
エマオの二人の弟子がイエス様と共に食事をしたのは、復活をされたその日、イースターの日における食事でした。その食事には、準備が必要でした。イエス様ご自身による聖書の説き明かしです。つまり説教を聞いたことを心に留めながら、食卓を味わうのです。説教と聖餐の関係はエマオの途上で起こったことと同じです。復活のイエス様がおられ、聖書のみ言葉に心が燃えていて、パンと杯にあずかるという喜びの祝宴です。今日もその復活されたイエス様との食卓が用意されています。
二人の弟子は、その後11・5キロの道のりを歩いてエルサレムへ向かいました。そこで復活されたイエス・キリストを証しました。
 私たちもこの一週間、復活のイエス・キリストを証していきましょう。
お祈りをいたします。