見ないで信じる人
和田一郎牧師 説教要約
詩編66編1‐9節
ヨハネによる福音書20章24-29節
2025年5月11日
Ⅰ. はじめに
今日の聖書箇所は、弟子のトマスが中心人物です。今でも「疑い深いトマス」として知られているトマスは「ディディモ」とあだ名で呼ばれていました。トマスは後にインドに宣教に行き殉教したと伝えられています。チェンナイという以前はマドラスと呼ばれていた町があり、その地で殉教したという言い伝えがあります。勇敢な宣教者として現在においてもインドのクリスチャンの誇りとなっているそうです。「疑い深いトマス」のことをインドのクリスチャンは、今も誇り高き信仰者としている。彼がインドで残した功績は大きいものがありました。そのトマスのことを心に留めながらヨハネ福音書20章を分かち合っていきたいと思います。
Ⅱ. 二つの日曜日の出来事
先週、私はエマオの町に向かう二人の弟子の話をしました。イエス様が復活されたイースターの日の午後、エマオに向かって歩いていた二人の弟子たちに現われてくださいました。エマオの二人の弟子の家で食卓を囲んでいる時、パンを分け与えてくださった瞬間にイエス様の姿は見えなくなりました。その後の出来事がヨハネ書20:19節「その日、すなわち週の初めの日の夕方」とあります。週の初めの日は日曜日です。つまり、イエス様が墓の中には見当たらなかった、あの復活された日曜日。昼になるとエマオの二人の前に現れてくださって、日が暮れて夕食のパンを分け与えた時に姿が見えなくなりました、その同じ日の夕方でした。
19節「弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」エルサレムにいた弟子たちは、イエス様に従っていた自分たちも捕らえられ、裁判にかけられるのではないかと恐れていたのです。その弟子たちのところに現われてくださいました。鍵をかけてあるはずの家の戸を通り抜けることができたのは、イエス様の体が、以前とは違う霊的な体で来られたからです。しかし、幽霊のようなものではありません。ルカ福音書には「私の手と足を見なさい。まさしく私だ。触ってよく見なさい。霊には肉も骨もないが、あなたがたが見ているとおり、私にはあるのだ。」(ルカ24:39)と言われたように、手と足というのは十字架につけられた時の釘の跡のことです。その後、弟子たちとガリラヤ湖で食事もされました。ですから、復活されたイエス様は確かに肉と骨がありましたが、物理的に制限されない復活の体で来られたからです。
この家に集まっていた弟子たちは不信仰に陥っていました。「私は復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」(マルコ14:28)と言われていたのにもかかわらず、身の危険を感じて、戸を閉めて家の中に閉じこもっていました。それに、彼らはイエス様があらかじめ復活の預言を口にしていましたが、それを信じていませんでした。さらに、イエス様が弟子たちの真ん中に現れても、復活されたとはすぐに信じられず、自分たちは幽霊を見ているのではないかと思ったでしょう。そのような驚きと戸惑いの中で、イエス様は「あなたがたに平和があるように」、つまり「シャローム」といつもの挨拶の言葉をかけて下さったのです。イエス様が手と脇腹を彼らに示されると、「弟子たちは、主を見て喜んだ。」とあります。ところが弟子の一人であるトマスはその場にいませんでした。トマスだけが復活したイエス様と会うことができなかったのです。
他の弟子たちはトマスに(25節)「わたしたちは主を見た」と言いました。しかしトマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない。」と言ったのです。自分がこの目で見て納得できないことは信じないというトマスの、トマスらしい言葉がここに現れています。いくら信頼する他の弟子たちの言葉を聞いても、トマスはイエス様の復活を信じませんでした。
Ⅲ. 信じる者になりなさい
26節「八日の後」とあります。八日の後というのは足かけ八日ということです。イエス様が復活した日は日曜日でしたが、その日も含めた足かけ八日ですから、翌週の日曜日のことです。この日はトマスも他の弟子たちと一緒にいましたが、そこに、イエス様が再び現れました。「戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」とあります。一週間前と同じように、弟子たちは戸に鍵をかけていました。一週間前は、ユダヤ人に目をつけられて捕まるのではないかと恐れて部屋の中に閉じ籠っていた弟子たちです。しかし、イエス様が「あなたがたに平和があるように」と語りかけ「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言って、彼らに息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」とおっしゃいました。聖霊を受けて恐れから解放されました。預言されたように復活されたことを信じて喜びました。それが一週間前の出来事でした。一週間前の弟子たちと同じようにトマスは心の戸を閉ざして閉じ籠っているのです。マグダラのマリアが「わたしは主を見ました」と言っても弟子たちが信じなかったように、トマスも他の弟子に「わたしたちは主を見た」と言われても信じることができないまま、部屋の中にいました。
再び弟子たちの真ん中に来て下さったイエス様は、先週と同じくように「あなたがたに平和があるように」と語りかけて下さいました。そして、この時はトマスに向かって語りかけて下さいました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。トマスに、手の釘跡と脇腹の傷を見せて「ここに触ってみなさい」「確かめてみなさい」と言われたのです。「私は決して信じない」と言っていたトマスは「わたしの主、わたしの神よ」と告白しました。イエス様がまさに復活されたこと、そして今も生きておられること、その復活された方が、私の主、私の神であると信仰告白したのです。
Ⅳ. 確信するために疑う
トマスが言った、「私の主、私の神」という告白は、ヨハネの福音書の最初と最後をつなぐ告白だと言えます。このヨハネ福音書の1章は、最初に受肉前のイエス様のことが、「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」と記されています。これは、端的にいえば「イエスは神である」と言うキリストの神性を現す言葉です。トマスの告白は、ヨハネ福音書の結びの部分を担っていて、疑っていた者が「私の主、私の神」と告白することができた出来事を通して、続く30節からの本書の目的に続くのです。小見出しには「本書の目的」とある節です。31節「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じて、イエスの名によって命を得るためである。」
ヨハネによる福音書は「イエスは神の子メシアであると信じるため」に、使徒ヨハネによって書かれました。ですからこの書の目的にあるように、信じていない者が信じるため、イエス様の言葉を疑っている者が、イエス様が復活するなどありえないと思っていた、人間的で、素直で、率直な人が、心から主を信頼して「私の主、私の神」と信じるに至る物語となっているのです。
トマスは、イエス様の手の釘跡とわき腹の傷に触って確かめたから信じたのではありません。触らなくてもその傷を見たから信じたのでもありません。イエス様が、一週間たったこの時に、再び現れてくださり、トマスに向かって語りかけて下さった。そのことによって彼は信じたのです。「私の主、私の神」と。トマスがイエス様の言葉から受け取ったのは「自分も信じたい。復活されたと言われた言葉どおりに復活されたことを信じたい。信じたいけど、一週間前にイエス様と出会った仲間には着いて行けない。信じたいけど会っていない。見ていない。」トマスの「疑い」というのは、不信仰からの疑いではないのです。「復活する」というイエス様の約束が、真実であることを知りたかった、確信したかった、信じない不信仰ではなく、信じたいという「求め」があったのです。ですからイエス様はトマスのことを責めていません。
確かに29節のイエス様は「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われました。いっけんトマスのことを責めているように感じられます。「あなたは私があなたの前にこうして現れ、わたしの姿を見たのでようやく信じた。でも本当は、私の姿を見ないで、他の弟子たちの証しを聞いただけで信じるべきだったのではないか? 見て信じたあなたよりも、そのように見ないで信じる人の方が幸いなのだ」と言われているように感じるのです。しかし、そうではなく、疑いをもつトマスの思いを受け止めて下さった。「信じる者になりなさい」と招いてくださったのです。トマスはここで、疑い深い自分を見捨てたり、置き去りにしたりしない、温かい恵みを感じ取ったのです。そのように自分を愛して下さっているイエス様が、生きて自分と会いに来てくださり、語り合って下さっていることを体験しました。事実を見た、実際に触ったという事実確認ではなくて、神の愛に触れたことによって信じる者へと変えられたのです。そしてトマスは「信じる者」となり、「わたしの主、わたしの神よ」と告白したのです。
イエス様は、今も復活の体をもって、生きておられます。私たちもその姿を見ることはできませんが、見ないで信じる者は幸いだ、とおっしゃるとおり、見ないで信じる者でありたいと思うのです。なぜならトマスと同じように、見たり触ったりという事実確認などよりも、もっと大きな恵み、神の愛を受け取ることが今もできるからです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ書3:16)。という永遠の命を得ることができる恵みです。それは今を生きる私たちが、自分らしく、正しく、幸せにこの地上の生涯を歩くことができる恵みの命です。そして、やがてあの復活のイエス様と同じ、復活の体を授かる恵みがあります。
トマスの出来事を通して、私たちが待ち望む「復活」のイメージがより明確になっていきます。私たちの復活の希望を、トマスを通して確信することができます。これほど復活のイメージを明らかにしているものはありません。それはすべて、トマスが正直な疑問を率直にぶつけたからです。私たちの信仰は、神様との対話、イエス様との対話から生まれるものです。疑いをもっていいのです。疑問をぶつけていいのです。「何となくそういうことになっているのだな」という信仰から、対話から生まれる確信にいたる信仰をもちたいと思うのです。誇りをもって、トマスの信仰に倣(なら)っていきたいと思うのです。
お祈りいたします。
