涙、拭われる日

<召天者記念礼拝>
宮井岳彦副牧師 説教要約
イザヤ書49章8-13節、ヨハネの黙示録7章9-17節
2025年5月18日

Ⅰ. 私たちは共に神を礼拝する

今日、私たちは召天者記念礼拝を献げています。この礼拝に出席してくださったことに心からの感謝を申し上げます。心を合わせてご一緒に神を礼拝するこの尊い時間が与えられたことを、神様に感謝いたします。
聖書朗読に先立って召天者名簿を読み上げました。去年のこの礼拝からの一年間で、17名のお名前がこの名簿に記されました。そして、高座教会は1月からさがみ野教会と合同して一つの教会になりました。さがみ野教会が覚えてきた34名のお名前も今年から同じ名簿に記されています。そして、昨年までの召天者記念礼拝で覚えてきた、たくさんの方たちのお名前も記録されています。たくさんの方たちのお名前を覚えて、この礼拝を献げています。
今、私はあまり正確ではないことを申しました。「たくさんの方たちのお名前を覚えて神を礼拝している」。これはあまり正しくありません。言い直します。私たちは先に逝去(せいきょ)した、たくさんの方たちと共に神を礼拝している。私たちが名前を思い出しているというだけではありません。私たちは神さまの御前で、逝去者と一緒に神さまへの礼拝を献げています。
今日の聖書の言葉はそういう箇所です。「この後、私は数えきれぬほどの大群衆を見た。彼らはあらゆる国民、部族、民族、言葉の違う民から成り、白い衣を身にまとい、なつめやしの枝を手に持って、玉座と小羊の前に立っていた。彼らは声高らかに言った。『救いは、玉座におられる私たちの神と、小羊にある』」(9,10節)。壮大なイメージです。白い衣を着た数え切れ得ないほどたくさんの人々が神を礼拝している。この人たちは一体誰なのでしょうか?聖書にはこう書いてあります。「この人たちは大きな苦難をくぐり抜け、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」(14節)。
詳細な説明をしようと思うといろいろな議論があるのだと思いますが、「大きな苦難をくぐり抜け」というのは、既に亡くなった人々ということです。既に亡くなった人たちは今一体何をしているのか?神を礼拝している、と聖書は言います。神とキリストの前で、誰にも数えることのできないほどのたくさんの人、神にしか分からない大群衆が、白い衣を着て神を礼拝している。
今ここに生きている私たちも、既に生涯を閉じた先輩たちも、同じです。同じように神を礼拝しています。

Ⅱ. 礼拝が刻む人生の旅路

神に礼拝を献げる場所を礼拝堂と呼びます。礼拝堂はとても不思議な場所です。私たちの人生の全部が詰まっている場所です。
礼拝堂には生まれたばかりの赤ちゃんが連れてこられます。赤ちゃんも一緒に神を礼拝します。教会は赤ちゃんのために感謝と祝福を求めて祈りを献げます。この礼拝堂では洗礼が授けられます。礼拝堂では小さな子どもも大人も賛美歌を歌います。この礼拝堂では結婚式も挙げられます。神を礼拝することで新しい夫婦の誕生を祝います。そのカップルに子どもが与えられれば、やはりその子はこの礼拝堂に連れてこられて一緒に神を礼拝し、その子のために祝福の祈りが献げられます。
そういう「特別な時」だけではありません。私たちが生きている間、礼拝堂では毎週日曜日になると必ず礼拝が献げられています。日曜日にこの場所で礼拝を献げて新しい一週間が始まり、毎日を生き、そしてまた次の日曜日に礼拝を献げる。神を礼拝することで私たちは一週間の旅路を生きています。
そうやって私たちが生き、やがて最期を迎えたときにも、そこには礼拝があります。私たちは神を礼拝して、愛する人を葬ります。逝去した人の体を礼拝堂に迎え、一緒に神を礼拝します。私たちの葬りの営みは礼拝です。礼拝堂で神を礼拝し、墓地で神を礼拝するのです。
礼拝が私たちの人生の旅を包み込んでいます。毎週日曜日、必ず、教会は礼拝を献げます。そして、教会の葬儀も礼拝です。愛する人を葬ったときに神を礼拝したのと同じように、毎週日曜日にも礼拝堂では神に礼拝を献げています。礼拝が私たちの旅のリズムです。生まれてから最期を迎えるまで、私たちは神を礼拝することで旅路を歩んでいきます。神を礼拝することで私たちは生き、そしてやがて終わりの日を迎えます。

Ⅲ. 天の国を目指す旅路

今年からさがみ野教会が記念してきた召天者のお名前が名簿に記載されています。一組のご夫婦をご紹介します。Yさんというご夫妻が名簿の中に記されています。奥様のEさんは女学校の時代からキリスト教会の信仰に大きな影響を受け、共感を抱いておられたそうです。結婚後、友の会に入りました。そこでも羽仁もと子さんの信仰に導かれて聖書を学んでいました。洗礼を受けたいと願いましたが、なかなか夫の賛成を得ることができず、実現しませんでした。それでも友の会のお友だちがいた、さがみ野教会の礼拝に折にふれて出席しておられました。
ある日曜日のこと、礼拝の後でEさんがニコニコの笑顔で私に話してくださいました。「主人とお互いのお葬式のことを話し合いました。私のお葬式は、私がそうしたいなら教会でしても構わないと言ってくれました。先生、よろしくお願いします。」本当に嬉しそうにおっしゃいました。
そのすぐ後、Eさんは転倒して大腿骨を骨折、入院生活に入りました。ご主人が教会に来られました。教会での葬式について教えてほしいとおっしゃいました。言葉を尽くしてご説明しました。教会ではちゃんとやってくれるのか、任せて大丈夫なのかと心配しておられました。
Eさんは急速に弱っていかれました。ご家族から、Eさんがずっと願ってきた洗礼を授けてほしいという依頼がありました。病院のベッドで、ご主人も含めたご家族の立ち会いの下、Eさんに洗礼が授けられました。忘れられない洗礼式です。洗礼を受けて1か月ほどでEさんは亡くなり、教会で葬儀をしました。
Eさんの葬儀の後、ご主人のSさんが礼拝に来るようになりました。毎週です。礼拝堂の一番前の席に座っておられました。Sさんはおっしゃった。「私も妻と同じところに行きたいのです。」そして、Sさんは洗礼をお受けになった。齢(よわい)90を超えてのことです。Sさんの洗礼も、決して忘れることのできない出来事です。Sさんはその後も、ご自分で動ける間は毎週日曜日になると休まず礼拝に出席してくださいました。さがみ野教会の皆の模範であり、目標とするお姿でした。神を礼拝することで、このご夫妻は一つでいらしたのだと思います。このお二人の人生は、神を礼拝し、天の国を共に目指す旅路となっていったのです。

Ⅳ. 涙、拭われる日

Yさんご夫妻もその一員である天での礼拝です。「この後、私は数えきれぬほどの大群衆を見た。彼らはあらゆる国民、部族、民族、言葉の違う民から成り、白い衣を身にまとい、なつめやしの枝を手に持って、玉座と小羊の前に立っていた。彼らは声高らかに言った。『救いは、玉座におられる私たちの神と、小羊にある』」。
礼拝者が「なつめやしの枝」を手に持っていると書いてあります。旧約聖書を読むと、なつめやしは罪の赦しを神さまに求める特別な礼拝で飾るものであったようです。なつめやしの枝を手で振って、彼らは叫びます。「救いは、玉座におられる私たちの神と、小羊にある。」ここにある「小羊」というのは、キリストのことです。神とキリストが私たちを救ってくださる。罪から救ってくださる。そこに救いがある。
私たちには本当にたくさんの後悔があるでしょう。取り返しのつかないこともあるでしょう。どうしてもっと愛してあげられなかったのか、どうして苦しんでいるときに優しい言葉をかけてあげられなかったのか。キリストがそんな私たちを救ってくださいます。
更にこんな言葉もあります。「それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜も神殿で神に仕える。玉座におられる方が、彼らの上に幕屋を張る。彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽もどのような暑さも、彼らを打つことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へと導き、神が彼らの目から涙をことごとく、拭ってくださるからである。」(15-17節)
神に仕えるというのは、神を礼拝するという意味です。神の前で神を礼拝する者となる。神を礼拝することで、私たちは罪の赦しを経験する。キリストの救いの喜びを、神を賛美することで私たちは体験する。そこには飢えも、渇きも、暑さも、他のどんな苦しみももはやない。キリストご自身がこの目の涙をことごとく拭ってくださる。神を礼拝し、望みを頂き、涙拭われる。
生きているときも、死ぬ時も、キリストが私たちの羊飼いでいてくださって、私たちの目から流れる涙をすべて拭ってくださいます。私たちは脆(もろ)いし、儚(はかな)いし、弱い存在です。しかしそんな私たちのことを神が覚えていてくださいます。だから、安心してよい。平安の内に、神を礼拝しましょう。私たちを罪や死から救ってくださるキリストを。どんな時にも私たちを覚え続けてくださる神を。今、私たちは心を一つにし、そして心を込めて、神を礼拝しましょう。