そうすれば捕れるはず
和田一郎牧師 説教要約
申命記8章2-10節
ヨハネによる福音書21章1-14節
2025年5月25日
Ⅰ. 復活してから
イエス様が復活されて、弟子たちの前に姿を現してくださった出来事をたどってみたいと思います。
イエス様が最初にご自身を現わされたのは、マグダラのマリアに対してでした。週の初めの日の日曜日、朝早くにマグダラのマリアが墓へ行ってみると、復活された主が彼女に現れ「女よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか。」(ヨハネ20:15)と言われました。彼女は驚きと喜びと共にそのことを弟子たちに告げました。しかし、弟子たちはたわごとのように思いました。次にその日の午後、エマオに向かっていた二人の弟子たちに現われました。そして夕食の時にパンを裂いた瞬間に姿が消えました。その後の夜、ユダヤ人を恐れて戸に鍵をかけて集まっていた弟子たちのところに現われてくださいました。イエス様が手と脇腹を彼らに示されると、「弟子たちは、主を見て喜んだ」(20:20)とあります。それが一度目の出来事です。
しかしそこに、12弟子の一人でディディモと呼ばれるトマスがいませんでした。彼は疑い深い人で、ほかの弟子たちが「私たちは主を見た」と言っても、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない」(20:25)と言いました。
その一週間後の日曜日ことですが、弟子たちが集まっていたところに、再び主が現れてくださいました。今度はトマスも一緒でした。そしてトマスに「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。」(20:27)と言われました。するとトマスは、「私の主、私の神よ」とイエス様の復活を信じました。これが二度目のできごとです。
Ⅱ. 弟子たちガリラヤへ行く
イエス様は、2回、復活の体をもって弟子たちの前に現れてくださいました。まずイースターの日に復活をされて、墓の前と、エマオの道と、弟子たちのいる部屋の中に現れたのが1回目。2回目は、一週間後にトマスに傷あとを示された時。そうして今日の箇所が三度目に復活して現れてくださった出来事です。
1節「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちにご自身を現された。」ティベリア湖とはガリラヤ湖のことです。ティベリアとは、ローマ帝国統治時代に用いられたローマ風の呼び名です。そこでイエス様は再び弟子たちにご自分を現われてくださったのです。なぜ弟子たちはこの時ガリラヤ湖にいたのでしょうか。イエス様がそのように言われたからです。「恐れることはない。行って、きょうだいたちにガリラヤへ行くように告げなさい。そこで私に会えるだろう。」(マタイ28:10)と。
ガリラヤ湖は彼らの故郷です。彼らが小さい頃から慣れ親しんだ場所ですし、彼らは、このガリラヤ湖で漁をしながら生計を立てていた場所です。しかし3年半ほど前に、イエス様から「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタイ4:19)と言われ、すべてを捨ててイエス様に従って行きました。ところが、そのイエス様は十字架に付けられて死んでしまったのです。それで彼らは望みを失ってしまったのです。これまでメシアとして、先生として信頼してきたイエス様が死んでしまったのですから。しかし、イエス様は三日目によみがえられました。その復活された主イエスが彼らに現われ、ガリラヤに行くようにと言われたのです。
そこにいたのが2節にあるように「シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それにほかの二人の弟子が一緒にいた。」イエス様の七人の弟子が、かつて漁をしていたガリラヤ湖畔にいたのです。
Ⅲ. 三年ぶりの漁
すると、シモン・ペトロが彼らに「私は漁に行く」と言いました。他の弟子たちも「私たちも一緒に行く」と言いました。なぜ漁に行こうとしたのか?その目的は分かりません。宣教することをあきらめたとも考えられますし、その日の食事が必要だったのかも知れません。しかし、一つだけ確かなことは、このとき彼らには無力感があったということです。イエス様が復活された、その姿を見ることができた。しかし、自分たちの知恵では、これから先どうしていいのか分からなかった。かつて生業としていた漁師の仕事まで捨てて従って行ったイエスは、今は一緒にいないのですから。いったい今までのことは何だったのか。いっそ、自分たちの仕事であった漁にでもでてみよう。それが「私は漁に行く」という言葉に現れたのだと思います。彼らはもともと漁師でしたから、これが自分の本業だと思ったのでしょう。「人間をとる漁師にしよう」と言われてイエス様について行ったのは良かったけれども、そのイエス様がいなくなってしまうとまた、「魚をとる漁師」に戻りそうになっているのです。
結果はどうだったでしょう? 3節後半をご覧ください。「彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何も捕れなかった。」収穫はゼロです。夜は漁をするには一番いい時間だったのでしょう。彼らはこの湖で漁師を生業としていたのですから、それを知っていて夜に漁に出たのですが、収穫はなかった。
七人の弟子たちはがっかりして、漁からもどってきました。すると、4節「すでに夜が明けた頃、イエスが岸に立っておられた。」エマオの途上やエルサレムで現れてくださったイエス様が、約束通りガリラヤに現れてくださいました。しかし、「弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。」というのです。そこでイエス様は七人の弟子たちに告げました。「子たちよ、何かおかずになる物は捕れたか」と話しかけたのです。その距離200ぺキス(約90m)とありますから、大きな声で呼びかけてくださったのです。彼らは、大きな声で「捕れません」と答えた。するとイエス様は「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れるはずだ。」弟子たちは、「もう今さら網を打ってもしょうがないだろう」そう思ったでしょう。しかし、言われた通りに網を打ってみました。すると「魚があまりに多くて、もはや網を引き上げることができなかった。」というほど大漁となったのです。
その時、弟子の一人がペトロに向かって「主だ」と言ったのです。それは「イエスの愛しておられたあの弟子」とありますが、それはヨハネのことです。ヨハネは「主だ」と言って岸に立っているのがイエス様だと分かりました。それが分かったのは「魚があまりに多く」捕れたのを見て、「主だ、イエス様だ」と分かったのです。つまりイエス様を見て分かったのではなくて、言われた通りに船の右側に網を打って「あまりに多い魚」を見て、ということです。あまりに多い魚のためにもはや彼らには網を引き上げることができなかったのを見て、「主だ」と叫んだのです。ヨハネは思い出したのだと思うのです。ルカ福音書5章でペトロやヨハネを弟子にする時の出来事です。イエス様がペトロの舟に乗ると、「沖へ漕ぎ出し、網を降ろして漁をしなさい」(ルカ5:4)と言われました。彼らは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、「お言葉ですから」と網を下してみると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになったのです。
ヨハネは、あの出来事を思い出して、このような業ができる方は「主だ」と言ったのです。それを聞いたペトロは、すぐに反応しました。「主だ」と聞くと、すぐに湖に飛び込みました。ペトロは理性よりも感性で行動する人でしたから、ヨハネから「主だ」と聞いただけで反応する純粋で、行動的な人でした。一刻も早くイエス様のもとに行こうと思ったからです。舟は陸地から約90メートル(二百ペキス)の距離です。しかも、彼は裸だったので、上着をまとって飛び込みました。普通でしたら逆です。裸になって飛び込まないと泳ぎづらいどころか、溺れてしまうかもしれないのですが、身なりを整えようとしたのでしょうか。そばにあった上着をまとって急いで湖に飛び込みました。ペトロの実直さが現れているところです。
Ⅳ. 「さあ、来て、朝の食事をしなさい」
さて七人の弟子が陸地に上がると、何が待っていたでしょうか。9節「陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚が載せてあり、パンもあった。イエスが『今捕った魚を何匹か持って来なさい』と言われた。」
弟子たちが岸に上がると、そこには炭火が起こされていました。そこで魚とパンが焼かれていたのです。それはイエス様が用意してくださったものでした。その魚とパンは弟子たちが漁で捕ったものではありません。彼らが来る前に用意してあったのですから。それはイエス様が用意してくださったものです。イエス様ご自身が彼らのために用意してくださったのです。
さらに、イエス様は彼らに「今捕った魚を何匹か持って来なさい」と言われました。それでペトロは舟に乗って、網を陸地に引き上げました。すると、網には何匹の魚がいたでしょうか、153匹です。網は153匹の大きな魚でいっぱいでした。この153という数字に意味があるとする神学者もいますが、ここは数字に深い意味があるというよりも、これを書いたヨハネは、この出来事が感動的な出来事として鮮明に覚えていて、153匹もの魚がイエス様の言葉に従ったことで捕れたことへの驚きの事実として、曖昧な表現ではなくて具体的に記録したと思うのです。彼らが取った魚をそこに加えて、そして「さあ、来て、朝の食事をしなさい」とおっしゃった。イエス様が用意して下さった食事に弟子たちは共にあずかったのです。13節「イエスは来て、パンを取り、弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。」
Ⅴ. 「そうすれば捕れるはずだ」
今日の出来事で、七人の弟子たちは自分たちのよく知っているガリラヤ湖で、自分たちの経験に基づいて夜、漁にでましたが収穫はありませんでした。ところがイエス様に「船の右側に網を打ちなさい、そうすれば捕れるはずだ。」と言われて、その通りにすると153匹もの魚が捕れた。「右側」というのは、聖書の中では、強さ、力、権威、祝福を現し、神の権威が働く所を意味します。使徒信条でイエス様が「全能の父である神の右に座しておられます」というのは、父なる神の強さ、力、権威、祝福がイエス・キリストを通して現されているということです。つまり、ペトロとヨハネをはじめとする七人の弟子たちが、漁師であった自分たちの知恵ではできないことでも、神様の領域では可能となることを現しているのです。人間の知恵と力では収穫がなくて、落胆してがっかりすることがある、しかし、人にはできないことも神にはできる。神の力と権威に委ねることを弟子たちに示してくださったのです。
私たちは、それぞれの生活において、自分の好きな時に好きな所に網を打つことができます。しかし、船の右側を見つけなければなりません。神の御心がある所を見つけなければなりません。そこに打てば、「そうすれば捕れるはずだ」と主は言われます。153匹です。溢れんばかりの恵みです。そんな大きな恵みは自分には多すぎますと、言いそうになるぐらいの恵みです。はち切れそうな多くの恵みでも、網は破れることはない。
この一週間、しんどかったな、きつかったな、辛かったな、もしくは4月からちょうど2か月ほどが経ちましたが、新しい仕事や学校、新しい生活の環境の中で、疲れたなと感じている方がいるかも知れません。新しい人間関係に負担を感じている方がいるかも知れません。七人の弟子たちもそうでした、深夜一生懸命、漁をしたのに、何の成果も得られなかった。収穫ゼロです。空しいものです。プロの面目丸つぶれでした。それでもイエス様は「さあ、来て、朝の食事をしなさい」全部用意してくださっているのです。これも船の右側です。
私たちは一週間の働きを終えて、神の領域である教会へと、礼拝へと招かれています。イエス様が用意してくださり、イエス様が招いてくださる礼拝です。神の権威のある場、イエス様の権威のある場である主日の礼拝に期待していきましょう。
お祈りいたします。
