天をみあげて

和田一郎牧師 説教要約
士師記6章11-16節
使徒言行録1章 6-11節
2025年6月1日

Ⅰ. 復活の四十日の意味

イエス様は復活されて四十日間、弟子たちの前に現れてくださいました。エマオへ向かう道で弟子たちと一緒に歩いてくださり、部屋の中で弟子たちと一緒にいた“疑り深いトマス”の前に現れ、ガリラヤ湖の湖畔に現れて食事を一緒にしてくださいました。そのように四十日間を過ごしてくださいました。十字架で死んで三日後に復活された、それに留まらず四十日間という期間を地上で過ごしてから天に昇られました。この四十日はいったいどんな意味があったのでしょうか。
「四十日」という日数は、旧約・新約聖書の多くの箇所に出てきます。たとえばノアの箱舟の出来事では、地上に悪が満ち溢れてしまった、その人間の悪を洗い流すために神様は「四十日四十夜」雨を降り注がれノア家族によって新たな人類の歩みをさせようとされた(創7:4)。イスラエルの民がエジプトを脱出して約束の地カナンへ向かう時、十戒を与えるためにモーセは「四十日四十夜」シナイ山に留まる(出エジプト24:18)ことになりましたし、約束の地に入るまでの準備期間は、荒れ野の四十年という日数でした。預言者エリヤも神の山ホレブを目指して「四十日四十夜」歩き続けました(列上19:8)。そして、何よりもイエス様は四十日間荒れ野にいて、サタンの試みをお受けになりました(マルコ1:13)。神様が与えられた、それらの四十日には準備の期間や、訓練の期間、新しい転換の時に与えられる日数です。
イエス様が復活されてから四十日を地上で過ごされました。イエス様にとっての四十日というより、使徒たちにとって、この四十日に意味があるのです。イエス様は死んで復活することを、前もって伝えておりました。事実三日後に復活をされました。しかし、彼らはまだ次に起こることへの準備が不十分でした。弟子たちが、イエス様が去った後に、なすべきことへの準備が十分ではありませんでした。四十日間にイエス様が肉体をもって復活なさったことを、確かな証拠を示して彼らに確信させて下さる必要があったのです。ルカ福音書24章43節には、復活されたイエス様が焼き魚を美味しそうに取ってお食べになった、とリアルに語られています。そのようにして、イエス様はご自分が復活して今も肉体をもって生きておられることを弟子たちに明確にお示しになったのです。それはただ死んでしまったはずのイエス様が今も生きている、というだけのことではありません。
3節「四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」とあります。神の国とは神のご支配という意味です。それは死後の世界ではありません。イエス様が地上に来られたことによってそれが実現しました。イエス様が復活されたことによって永遠に途絶えることのない神の支配がこの地上に存在しているのだということです。いつでも、どこでも、存在するのです。しかし、それにはイエス様が天に昇られた後に、送ってくださると言われた「聖霊」を待たなければなりません。ペンテコステの時を待たなければなりません。
つまり、弟子たちは時代の転換点にいたのです。旧約の預言者たちが神の言葉を取り次いだ長い時代を経て、イエス様が来られた。その三年ほどの月日を経て、この後、ペンテコステの日を境に聖霊の時代が到来するのです。その時代の大きな転換期に備える必要があったのです。復活をされたイエス様と過ごす時間です。復活をされたイエス様を証しするためです。私たちは、復活して今も生きておられるイエス様を、見ることはできません。復活をされた姿を見ることができたのは、あの四十日の期間であっても、一部の弟子たちに限られていました。
イエス様はおしゃいました8節「ただ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる。」イエス様が、使徒と呼ばれる11人を中心に、その姿を現してくださったのは、彼らが聖霊の力を受けて、力強い証し人になるためです。

Ⅱ. 聖霊によって洗礼を授ける方

聖霊とありますが、マタイ28章19節で「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け」なさい、とイエス様はおっしゃいました。今日は、その洗礼式が予定されています。イエス様も洗礼を受けました。大工として過ごされていたイエス様が、宣教のための公生涯に出る時、洗礼者ヨハネという人も人々に洗礼を授けるということをしていましたが、イエス様もその洗礼者ヨハネから洗礼を受けたのです。
洗礼者ヨハネの洗礼は、悔い改めと、罪の赦しを求める「しるし」としての洗礼でした。しかし、イエス様が復活によって救いの御業を成し遂げて下さった今、ペンテコステの後に聖霊によって生まれた教会が、イエス・キリストの名によって授ける洗礼は、キリストの救いを信じる「しるし」であり「賜物として聖霊を受ける」のだと言われています。
「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、聖霊の賜物を受けるでしょう。」(使徒言行録2章38節)
洗礼において、聖霊なる神が働いて下さいます。悔い改め、イエス・キリストを救い主と信じる者を、復活して天におられるイエス様と、一つに結び合わせて下さるのです。そのことによって私たちは、罪のために自分が死ななければならなかった死を、イエス様の十字架の死によって死ぬことになり、イエス様の復活の命に結ばれて、わたしたちもイエス様と共に「永遠の命」を生きることになるのです。そして、神の子であるイエスさまと結ばれることによって、わたしたちも神の子とされます。

Ⅲ. 聖霊に満たされた人 ギデオン

聖霊を受ける、聖霊に満たされると言いますが、それはいったいどんなことでしょうか。聖霊は旧約聖書の時代にも働いていました。 たとえば士師記に出てくるギデオンという人も、聖霊に満たされました。今日、朗読した旧約聖書の箇所には、神様がギデオンを士師として召されたときの様子が描かれています。
「さて、主の使いがやって来て、オフラにあるテレビンの木の下に座った。それはアビエゼル人ヨアシュのものであった。ヨアシュの子ギデオンは、ミデヤン人の目を避けるため、搾り場で小麦を打っていた。主の使いは彼に会うと『力ある勇士よ、主はあなたと共におられます』と言った。ギデオンは答えた。『お言葉ですが、わが主よ。主が私たちと共におられるのでしたら、なぜこのようなことが私たちに降りかかったのですか。先祖が「主は私たちをエジプトから導き上られたではないか」と言って、私たちに語り聞かせたあの驚くべき業は一体どこにあるのですか。今や、主は私たちを見捨て、ミデヤン人の手に渡してしまわれました。』」(士師記6:11-13)
その時、ギデオンは「搾り場」にいました。酒ぶねのことです。ぶどうの実を足で踏みつぶして、ぶどうの汁を出す場所です。ギデオンはそこで小麦の脱穀を行なっていました。ミデヤン人に見つからないようにこっそりと小麦を脱穀していたのです。彼もまた他のイスラエル人と同じようにミデヤン人を恐れていました。ギデオンは気が弱くて、敵が来ることを恐れて隠れてしまう人でした。そんな彼を神様は、神の働き人として召されました。ついに、ミデヤン人やアマレク人、さらに東方の部族が連合してヨルダン川を渡って攻めてきました。その時「ギデオンは主の霊に包まれ」彼が角笛を吹き鳴らすと、マナセの人々は応えて集まった。アシェル、ゼブルン、ナフタリもギデオンのもとに集まった、連合軍となってギデオンに従ったのです。なぜこんなに大勢の人々が集まってきたのでしようか。それはギデオンに力があったからではありません。(士師記6:34)「ギデオンは主の霊に包まれた」からです。つまり、もともと弱気なギデオンが、自分の力に頼らず、聖霊によって戦うと決断したので多くの部族が従ったのです。
いまの私たちも、時としてなかなか決断できない事がありますが、ギデオンのように神の力に委ねる者は、聖霊が彼を覆ったように私たちをも聖霊の働きによって、正しい選択に導かれるのです。

Ⅳ. 復活のイエス様を証しする者として

今日の聖書箇所(使徒1:8)「ただ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる。」とあります。「証人」とは事実を証言する人のことです。この事実ほど説得力のあるものはありません。たとえば、この後4章のところで、ペトロとヨハネが「美しい門」と呼ばれるところで生まれつきの足なえを癒したことでユダヤ教の指導者たちから尋問を受けている様子が記されてありますが、ペトロは、大胆にも民の長老たちに「皆さんもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中から復活させられたナザレの人イエス・キリストの名によるものです。」(使徒4:10)と言いました。無学な、普通の人であったペトロとヨハネがこんなにも大胆になれたのは不思議なことです。それは彼らが、十字架の死を目撃し、四十日間イエス・キリストの復活の様子を目の当たりにした当事者だったからです。復活のイエス様を見て、触って、一緒に食事をした証人だったのです。しかし、彼らはただの目撃者や体験者ではありません。彼らは聖霊に満たされた証人でした。 
「聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」(使徒1:8)この「力」という言葉はギリシャ語の「デュナミス」といい、ダイナマイトの語源になりました。頑強なものでも粉々に砕く力あるものです。かつての弟子たちは、イエス様が十字架につけられた後、ユダヤ人たちに通報されて、逮捕されるのではないかと脅えて部屋の扉に鍵をかけてびくびく震えていましたが、ペンテコステの後の彼らは、まったくの別人のようです。立派に大胆に復活の主を証しし、人々を癒す力を発揮するのです。あのペンテコステにおいて聖霊が臨んだので、力を受けたのです。聖霊を受けて生まれ変わったのです。もともとは無学で、普通の人であった彼らが、神の証し人に変えられたのです。 
イエス・キリストは、私たちが一時的なものや、目に見えるものに捕らわれるのではなく、永遠に続く目には見えないもの、つまり神の愛と希望に目を向けるように導いています。私たちは常に目に見えるもの、物質的なもの、達成可能で一時的なものに気を取られがちです。しかし、使徒たちは復活の証人として、目に見えるものは過ぎ去るものであり、真に価値のあるものは、目に見えない神の国にあることを教えています。最後に復活の主に出会った証人である使徒パウロの言葉を聞きましょう。
「私たちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に存続するからです。」(2コリント 4:18)
お祈りいたします。