ペンテコステのめぐみ

和田一郎牧師 説教要約
使徒言行録2章1-8節
2025年6月8日

Ⅰ. 聖霊を待ち望む

きょうは、ペンテコステ礼拝です。イエス様は復活されて四十日間、弟子たちの前に現れてくださいました。神様が与えてくださった四十日という期間は、次の新しい働き、新しい時代に向かう大切な準備の期間でした。何の準備かといえば、それは聖霊が降って力を得て、イエス様が復活されたことを証しする準備の期間でした。そして、エルサレムにいた弟子たちに聖霊が降った、聖霊の力を与えられた弟子たちが伝道を始めて、三千人ほどの人々が洗礼を受けて教会が誕生したのです。それがペンテコステの出来事です。
今日はそのペンテコステの出来事をみなさんと分かち合いたいと思います。
弟子たちはイエス様から言われていました。使徒言行録1:8節「なたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる」。地の果てにまで私の証人となるという使命が与えられた弟子たちは、その使命を果たすためイエス様が、命じておられた通りに、聖霊を待ち望んで心を合わせて祈りに専念していました。
2章1節「五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっていると」とあります。聖霊が降ったのは「五旬祭の日」に起こったと1節にあります。五旬祭の「旬」という言葉は、月の上旬、中旬、下旬の旬ですから十日という意味、つまり五旬祭は五十日目の祭という意味になります。では何から五十日目かというと「過越の祭」からです。過越の祭から五十日目に、五旬祭、ペンテコステが祝われていたのです。
この日には、ユダヤ人の男性はエルサレムで礼拝を捧げるために方々から集まって来る日でした。ローマ帝国の各地に散らばっていたユダヤ人たちが集まっていました。さまざまな事情でエルサレムに行けない人もいたでしょう。しかし、この五旬祭の日にエルサレムにやって来る人々というのは、熱心な信仰者であったと言えます。そういう人々が多く集まる祭りの時に聖霊が降ったのです。
そのエルサレムに人がやって来て、ごった返す中にあって、弟子たちは「皆が同じ場所に集まって」いました。それは(使徒1:5)「ヨハネは水で洗礼(バプテスマ)を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって洗礼(バプテスマ)を受けるからである。」と言われたように、弟子たちはペンテコステの出来事で、洗礼を受けることになるのです。
高座教会では、先週の主日に洗礼式礼拝が行われました。9人の人たちが幼児洗礼、洗礼、信仰告白をしました。私は洗礼盤の水を手に取って頭に注ぎましたが、その水は聖霊によるバプテスマを象徴しています。弟子たちもエルサレムの同じ場所に集まって、聖霊によるバプテスマを受ける時を待っていました。彼らが集まっていたのは祈るためでした。「心を合わせて、ひたすら祈りをしていた」(1:14)心を合わせて祈っていました。そういう時に聖霊は下ったのです。聖霊はそれを待ち望む人たちに注がれるのです。
イエス様はルカ11章9-13で次のように言われました。
「そこで、私は言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子どもに、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカ11章9-13)
ここで言われた、求めなさい、探しなさい、叩きなさいというのは、そのように祈りなさいというイエス様の教えでした。そのように熱心に祈る者、求める者に聖霊を与えてくださるといわれたのです。弟子たちは同じ所に集まって、そのように祈っていました。そこに聖霊が降ったのです。
「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした。」(使徒2:2-4)

Ⅱ. それぞれの言葉で

聖霊を受けたことで「他国の言葉で話しだした」のはなぜでしょうか。一つは、あのバベルの塔の出来事(創世記11章)以来、人類にもたらされていた言語による混乱が取り除かれたということです。バベルの塔の出来事によって、それまで一つの言葉であった人類の言葉が混乱し、人々が塔の建設に必要なコミュニケーションができなくなったという出来事でした。レンガやアスファルトという人間に知恵によって高層の建物が造れるようになると、天まで届くような塔を建てて、名を上げようとしましたが、そのことに心を痛められた神様は、言葉を混乱させることによって彼らが町を建てることができないようにしました。言葉が通じないようになった人々は混乱して各地に散っていきました。それ以来、今に至るまでその混乱は続いています。国の違い、部族の違いの多くは言語の違いが根底にあります。しかし、このペンテコステの出来事によって、聖霊に満たされた弟子たちが、他国の言葉で話し出したことによって、それまで混乱していた言葉が理解できるようになり、言語が違っていても一致できるようになったのです。それは聖霊の力です。
分裂した人々が違う言語を使いつつも、一致することができるのは聖霊の働きによるのです。それが福音です。使徒パウロは言いました。
「キリストは来られ、遠く離れているあなたがたにも、また近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせてくださいました。このキリストによって、私たち両方の者が一つの霊にあって、御父に近づくことができるのです。」(エフェソ2:17-18)
キリストによって、両者がともに一つの霊において一致できると言っています。たとえ人間が仲良くしましょうと言ったところで、罪人である人間にあるのは敵意であり、争いでしかありません。ただキリストによって、同じ聖霊が与えられることによってのみ、敵意が廃棄され、真の平和がもたらされたのです。それは良い知らせ「福音」です。ペンテコステの日に彼らが他国の言葉で話し出したのは、福音による一致がここにあることを示されたのです。
さらに、弟子たちがそれぞれ異国の言葉で話し出したのは、この霊は「証し」の霊であったことです。5節以降エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来ていました。あらゆる国から来ていたということは、いろいろな言葉があったということです。ところが、聖霊に満たされた彼らはそれぞれの国の言葉で話したので、それを聞いた人たちは理解することができたのです。つまり、彼らが聖霊に満たされて、御霊が話させてくださるとおりに他国の言葉で話し出したというのは、弟子たちに与えられた使命を再確認させるためだったのです。弟子たちは、「地の果てまで、私の証人となる。」(使徒 1:8)地の果てにまで、キリストの証人になるという使命が与えられています。どのようにしてその使命を果たしていくことができるかといえば。聖霊に満たされることです。聖霊に満たされると私たちは力を受けるのです。このときに彼らが他国の言葉で話し出したように、それぞれの民族に理解できるように伝えていくことができるのです。それは単に言葉だけの問題ではありません。聖霊が満たされることによって復活の主を証しする、そのこと自体が「福音」であり、その「福音」が人々を惹きつけ、つなぎ合わせ、一致が可能になるのです。

Ⅲ.  聖霊に導かれて

榎本保郎牧師の妻 榎本和子さんという人がいます。長年連れ添った「ちいろば先生」こと、榎本保郎先生がアシュラム運動に出会いました。アシュラム運動というのはアメリカのスタンレー・ジョーンズという人が始めた、聖書の言葉への徹底した聴従を実践する超教派の運動でした。教会の牧会と、アシュラム運動の二足の草鞋でがんばっていましたが、そのアシュラム運動に集中して神様に仕えようとした時、急死してしまった。和子さんは頼りにしていた夫を失ったのです。
夫を天に送り、アシュラム運動を続けていくのは無理だし、故郷の淡路島の親戚からは「もどっておいで」と声をかけられていました。まだ成人していない二人の子どもを抱えていましたから、そうした方がいいだろうと思っていた。結婚してから夫に頼り切っていたので、いきなり頑丈な杖と盾を失った思いだったそうです。落ち込んで寝込んでしまったそうです。孤独になって枕元にある聖書にも触れることができなくなった。その状態が一週間ほど、続いたあと「取りて読め」という言葉を聞いたというんです。それは確かに神の声だったと。恐る恐る、聖書に手を伸ばしました。夫の保郎牧師が亡くなった日の朝に、一緒に読んだ聖書通読の箇所を読んだそうです。「イスラエルよ、今からとこしえに主によって望みを抱け」(詩編131:3)を読むと、心にさっと光がさしたそうです。夫に頼っていたけども、神さまに望みを抱けば決して消えることがないもんがある。
和子さんは、ぱっと起き上がって、寝床を挙げたそうです。さらに和子さんにみ言葉が与えられらそうです。「なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは、彼らはいつも、あなたを褒め称えます。」(詩編84:4)
そうして一歩踏み出した時。私も「ちいろば」になりたい。という思いでした。ずっと夫のようにはなれないと思っていたが、自分なりの「ちいろば」になろうと決意したというのです。

Ⅳ.  聖霊がとどまり、聖霊に満たされる

弟子たちが「みなが聖霊に満たされた」(4節)とあります。聖霊に満たされるとはどういうことを言うのでしょうか。聖霊は旧約時代のように、ある特定の預言者のような人が、特別な働きをする時に受けていたような限定的なものではありません。ペンテコステの出来事によって、すべての人に聖霊注がれました。ですからペンテコステの出来事から現在に至るまで、聖霊による新しい時代が始まったのです。それを求めるすべての人が受けることができるようになったのです。そのペンテコステの恵みは今も生きています。私たちはそのことを証しする賜物と機会が与えられています。言葉においても、仕事ぶりや、人との交わりにおいても、証しの生活をすることによって生きる力を受け、人々に生きる力を与えることができるのです。それが大いなるペンテコステの恵みです。
お祈りいたします。