自由な人として生きよう
宮井岳彦副牧師 説教要約
サムエル記上26章6‐12節
ペトロの手紙一2章11‐17節
2025年6月15日
Ⅰ. 戸惑いを覚える御言葉
聖書の御言葉はしばしば私たちの感情に逆らいます。聞きたくない言葉を聞かせてきます。13節に「すべて人間の立てた制度に、主のゆえに服従しなさい」と書いてあります。私などにとってはあまり聞きたくない言葉で、制度やそれに対する服従と言われると正直に言ってあまり良い気分がしません。
しかし、はっきり言ってそんな私のつぶやきは甚だ呑気なものでしかない。今日の準備のために何度も考えたのは、ナチ支配下のドイツの教会のことでした。ヒトラーが政権を取った翌年の1934年、ナチとの対決姿勢を鮮明にした教会が「バルメン宣言」と呼ばれる信仰告白を生み出しました。6つの条項からなる告白文ですが、その第5条項にこのように書かれています。
「神を畏れ、王を敬いなさい。」(一ペト2:17)
聖書がわれわれに語るところによれば、国家は神の定めに従い、教会もまたそこに生きる、まだ救われていない世にあって、人間の洞察と人間の能力の及ぶ限り、支配力による威嚇と行使とにより、法と平和が保たれるようにこころを配るという課題を与えられているのである。教会は、神に対する感謝と畏敬の思いをもって、このような神の定めの恩恵を承認する。教会は、神の国、また神の戒めと神の義とを想起せしめ、そのことによって、支配する者たちと、支配される者たちとに、それぞれの責任を想起せしめるのである。教会は、神の言葉の力に信頼し、これに従う。神はその御言葉によって、いっさいを支えてくださるのである。
国家が、自分に委ねられている特別な使命を越えて、人間の生活の唯一の、全体的な秩序となり、そのようにして、教会の定めとされた使命までも果たすべきであり、それが可能であるかのごとく教える過った教えを、われわれは却(しりぞ)ける。
教会が、自分に委ねられた特別の使命を越えて、国家的なありかた、国家の課題、国家としての尊厳までも、自分のものとし、そのようにして、自分を国家の一機関となすべきであり、それが可能であるかのごとく教える過った教えを、われわれは却ける。」
この条項の最初に掲げられているのがペトロの手紙一第2章17節であるのはとても印象深い事です。この御言葉に導かれて信仰を告白したドイツの教会はナチに迎合せず、戦いました。「すべての人を敬い、きょうだいを愛し、神を畏れ、王を敬いなさい。」この御言葉に真剣に聞き、従い、教会は教会でなければできない証しを立ててこの世界で生きてきたのです。「すべての人を敬い、きょうだいを愛し、神を畏れ、王を敬いなさい。」これはたいへんな御言葉です。この御言葉をどう聞くのかというところに、私たちの教会としての姿勢が顕わになるのではないかとさえ思います。
Ⅱ. キリストを通して
13,14節にはこのように書いてあります。「すべて人間の立てた制度に、主のゆえに服従しなさい。それが、統治者としての王であろうと、あるいは、悪を行う者を罰し、善を行う者を褒めるために、王が派遣した総督であろうと、服従しなさい。」先ほどの17節も含めて、こういう御言葉を私たちはどのように聞いたら良いのでしょうか。
少し具体的なことから考えてみたいと思います。今は何と言っても「米騒動」の時代です。ニュースが伝える政治家の失言や政策の推移を見ながら、私たちはブツブツつぶやいたり論評したりしています。そういう私たちも、人間の立てた社会制度である農業、流通や小売りといったシステムを頼りにして生きています。今回の騒動は、そういうシステムが何らかのかたちで上手くいっていないところがあるということなのでしょうか。そうだとしても、それを論評してみせれば話は済むのでしょうか。私たちは、今の出来事をどう見たら良いのでしょうか。
先ほどの13節にこのようにあります。「すべて人間の立てた制度に、主のゆえに服従しなさい。」ここに「主のゆえに」とあります。この「ゆえに」という言葉には、理由を表す意味の他に、空間的にどこかを通って、という意味もあります。ですから「主のゆえに」は「主を通って」とも言えます。私たちが主を通って出来事を見たときに、物の見方やそこでの生き方が新しくなるはずだ、と聖書は言っているのではないでしょうか。
つまり、主を通してこの世界、社会を見たときに、そこにある制度に対する不満や、不完全さをあげつらうのではない言葉や生き方が生まれてくるのではないか。
最近、ナチに抵抗した牧師のひとりでありますD.ボンヘッファーが書いた『共に生きる生活』という本を読み返しました。このような言葉がありました。
「私たちが、私たちのパンを一緒に食べているかぎり、私たちはごくわずかなものでも十分に持っているのである。誰かひとりが自分のパンを自分のためだけに取っておこうとするときに初めて、飢えが始まるのだ。」
これを読んで、思います。私たちの米騒動で本当に問われているのは、私たち自身が抱えている貪欲なのではないか、と。
米も、他のいろいろな食料品の値段も上がり、生活に大打撃を与えています。生活は苦しくなるばかりです。それでも、私のことを考えてみると、生きるために十分な糧を頂いています。しかし、そうではない方も実際にいます。本当に食べるに事欠いている人は、私たちが思っているよりも私たちの身近にたくさんおられます。
その人への支援は行政がすべきだと考える人もいるでしょう。社会のシステムをもっとよくするべきだという意見もあるでしょう。理想的な社会に近づけるために、もっとそういう人の声を行政が拾い上げるべきだと言う人もいるかもしれません。確かに一理あるとは感じますが、私は教会が善をもって生きる動機はちょっと違うところにあるのかなと思っています。高邁な社会への理想や「〇〇すべき」という言葉は、脆いです。その理想を踏みにじる人や制度、社会の現実を前にしたときに不満を生み出し、自分以外の他人や社会の責任として終わらせてしまうのではないでしょうか。
私は、キリスト教会の善を行う動機は、私たちの抱いている高邁な理想ではないと思っています。私たちは、キリストのゆえに、キリストを通ってこの世界を見つめます。そして問います。今、キリストは目の前にいて助けを必要としているこの人のために何をしようとしておられるのか。キリストは今この人に何をしようとしておられるのか。目の前のこの人を愛し、慈しみ、すべてをお与えになったキリストは今この人のために何をしておられるのか。キリストこそが私たちの生きる善を生み出す動機であり、基準なのではないでしょうか。
キリストはすべてを与えてくださいました。ですから、私たちも分け合ってみませんか?
Ⅲ. 自由な人として生きよう
「自由人として行動しなさい。しかし、その自由を、悪を行う口実とせず、神の僕として行動しなさい。」(16節)
私たちは、自由です。本当に自由です。自分の欲望に従って生きるのではなく、他者のために生きられるほどに自由です。
キリスト者の羽仁もと子さんが、私たちには靴を揃えて脱ぐ自由があるとおっしゃったそうです。美しい言葉です。靴を好き勝手に脱ぎ散らかすことは自由なのか。一見すると何にも縛られず自由に振る舞っているように見えます。しかし私たちは社会で生きている。他人の靴の上に自分の靴を脱ぎ散らかすことは決して自由ではない。社会的に物事を見なければならない。社会的に見れば、靴を揃えて脱ぐことが自由なのだ、とおっしゃっているそうです。
社会的に考えるというのは、人のことを考えるということでしょう。他人のために何ができるか、ということでしょう。私たちはキリストを通してどうやって他人と出会うのか、ということでしょう。
私たちは神の僕です。神に仕える僕です。そして、キリストは私たちの僕になって仕えてくださいました。だから私も、私の目の前にいる人の僕になるように招かれています。「すべての人を敬い、きょうだいを愛し、神を畏れ、王を敬いなさい。」(17節)
私たちには、人にも社会にも幻滅してしまうこと、裏切られたと思わざるを得ないこと、ガッカリしたり辛い目に遭わされたりすることもあります。怒りに震える日もあります。しかし、主イエス・キリストは私たちを裁くために世に来られたのではありません。私たちを愛するために私たちの友になってくださいました。私たちも、この世を裁くためにキリスト者になったのではありません。キリストが私たちを御自分のものとしてくださったのは、私たちがこの世を愛するためです。キリストを通してこの世界と出会い、この社会に生きる人びとを愛するためです。キリストのゆえに、キリストと共に、自由な僕として、私たちはここから送り出されていくのです。
