愛と真理の主の物語

和田一郎牧師 説教要約

2025年6月22日
詩編67編1-8  使徒言行録9章1節-22節

Ⅰ.神の御心に目を向ける

今日は使徒言行録から「サウロの回心」の箇所をお話したいと思います。回心というのは「心を改める」という改心ではなくて、「心が回る」と書く回心ですので、それまでの信仰が軌道修正されるということではなくて、回転するように全く違う方向になる。自分の力ではできない力、神様の力によってまったく違う生き方に変わってしまうことです。
特に今日の箇所で印象的な出来事は、18節「すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。」とあるように劇的な出来事です。
サウロとは、使徒パウロの別な呼び方です。サウロは厳格なユダヤ教徒で、イエス様を主と信じるクリスチャンをエルサレムで激しく迫害していました。クリスチャンたちは迫害を恐れて他の町へと逃れていきました。そのクリスチャンを追いかけるために、ダマスコに向かっていったサウロは、突然天から光を照らされて声を聴きました。「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」と語りかける声を聞いた。
「あなたは、どなたですか」という問いかけに応えてくださったのがイエス様の声でした。対してイエス様は、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」。そのイエスを信じる人たちを捕らえては牢屋に投げ入れていたサウロにとって、その言葉ほど衝撃的なことはなかったのではないでしょうか。「イエスは十字架で死んだ、復活したと言っている連中がいるが、そんなものは信じない。だからイエスが復活したとか言って人々を混乱させている連中は捕まえなくてはならない」。そう思っていたサウロに復活されたイエス様が現れて、その声を聞いた時、サウロは地に倒れて、何も見えなくなってしまいました。そして、同行していた人に連れられてダマスコに入ったのです。

 そのダマスコに、アナニアという人がいました。イエス様の弟子の一人で、エルサレムから逃れて、ダマスコにいたのでしょう。イエス様がこのアナニアに現れて、ご自分の御心を示されました。それは「まっすぐ」という街道に行き、サウロというタルソ出身の者を訪ねなさいと言われた。アナニアはためらいました。それはこのサウロがクリスチャンを迫害していた人物だったからです。恐ろしかったと思います。そのアナニアがサウロの元に行くと決めたのです。勇気のいる決断でした。ある神学者は「教会で忘れられたヒーローの一人がアナニアだ」と言いました。アナニアはこの箇所にしか登場しない人物です。私たちはその存在を忘れそうですが、彼は勇気を出してサウロの元に行きました。何故でしょうか。彼が人間的な見方ではなく、自分本位な考え方によってではなく、神様の側からの眼差し、神の御心に目を向けたからでした。神様がこのアナニアを選んだのです。神様が選んだだけの賜物があったのでしょう、誠実な信仰者であったに違いありません。イエス様が幻の中で「アナニア」と呼びかけられたとき、彼は、「主よ、ここにおります」と答えました。これは、旧約聖書で、少年サムエルに語りかけられたとき、サムエルが答えた言葉と同じです。自分の名前を呼ばれて「主よ、ここにおります」と答えることのできる人は、「イエス様。何があっても、あなたに従う用意ができています」という意志の表れです。そして、いつも神に従って信仰によって歩んでいる人です。アナニアはまさにそのような人でした。
イエス様は次のように言われました。15-16節「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らの前に私の名を運ぶために、私が選んだ器である。私の名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、彼に知らせよう。」
 そのように躊躇していたアナニアに対して、イエス様は「行け」と言われました。なぜそのように言われたのでしょうか。なぜなら、「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らの前に私の名を運ぶために、私が選んだ器である」からです。あの人は、クリスチャンを迫害するために来たひどい人で、あんな人が救われるはずがないと考えるのは、人間の側から見た判断にすぎないのです。神様の見方は違うのです。イエス様の焦点はそうではないのです。イエス様は、そんなサウロを選び、ご自身の名前をすべての人たちに運ぶ器として選んだのです。イエス様は、人間的には全く救われる対象ではないようなサウロさえも捕らえ、ご自分の名を運ぶ器に変えることができる方です。
 神様は、私たちの思いや考え遥かに超えて不思議で偉大なことをなされます。大切なことは、人間的な常識や感情で判断するのではなく、神様に焦点を合わせ、神様の側の視点で、何を願っておられるのかを知り、それに従って行くことです。それは人間の常識を越えたものですが、そうした人間の常識を越えた神の御心に焦点を合わせ、それに従ったとき、すばらしい神の御業が現れたのです。
 それは私たちの人生も同じです。自分の考えや思いにとらわれるのではなく、神の御心に焦点を合わせて生きることです。たとえそれが自分の考えや感情に合わないことであったとしても、神様の御心に合わせて生きるなら、私たちの思いをはるかに超えたすばらしいことを神様はしてくださいます。

Ⅱ.目から鱗(うろこ)が落ちる

 17-19節「そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。『兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、私をお遣わしになったのです。』すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼(バプテスマ)を受け、食事をして元気を取り戻した。」
 イエス様が命じられたとおりに、アナニアがユダの家に行くと、そこにサウロがいたので、アナニアは、彼の上に手を置いて祈りました。「兄弟サウロ。あなたの来る途中、あなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです」と。
 ここでアナニアはサウロを「兄弟サウル」と呼びました。クリスチャンを迫害するために遠いダマスコまで追いかけてきたサウロは、クリスチャンにとっては最も恐るべき敵であり、最も憎んでいた人物でした。それなのに、アナニアは「兄弟サウル」と呼んだのです。二人は同じイエス様に選ばれ、同じように救われた者は、ともに神の子、神の家族となるからです。アナニアは、イエス様に選ばれたサウロを、同じ主を信じる「兄弟」と呼んだのです。この時すでに、アナニアの中にはサウロに対する人間的な見方は無くなっていました。そして、アナニアは、自分がここに来た理由を語ります。それは「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、私をお遣わしになったのです」。と伝えたのです。アナニアはサウロが救われるために派遣されてきたキリストの使者であって、心の目を開くために来たことを告げました。
「目から鱗(うろこ)」という諺がありますが、それは聖書のこの箇所が由来となっています。「目から鱗」とは、ある出来事をきっかけとして物事の真の意味が理解出来ることです。実際にサウロの目から何かが落ちたのではなくて、今まで見えなかったことが見えるようになったのです。その見えなかったものとは何かといえば、それは信仰の目です。サウロが迫害していたイエスとはだれなのか。この方こそ、聖書に約束されていた救い主、キリストであったということがはっきりわかったということです。ですから、ここでアナニアは「あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです」と言っているのです。サウロの場合、肉眼が開かれることが、霊の眼が開かれることを象徴的に表していたのです。神様は、この時まで闇の中に生きていたサウロの人生を180度変え、回心に導き、キリストの喜びの証人へと変えてくださったのです。 私たちも、聖書のみ言葉の光に照らされるとき、目からうろこが落ちるという経験をすることがあるのです。ところで目からうろこが落ちる経験をしたサウロはどうなったでしょうか。彼は立ち上がって、洗礼を受けました。そしてすぐに、諸会堂で「イエスは神の子である」と宣教し始めました。ここから伝道者パウロの活動がスタートします。あれほど神に敵対し、教会を迫害していたサウロが救われたのです。それはまさに驚くべきことです。ユダヤ教の律法学者として、高い地位にあり、クリスチャンを迫害するサウロが回心するということは、まったく考えられないことでしたが、そのサウロが救われたのです。本当に驚きです。

Ⅲ.彼は祈っています

 アナニアは神様から声を聞くことができました。それは彼が祈っていた時でした。ここには、イエス様が幻の中で「アナニア」と言われたことが書かれてあります。彼が幻を受けたのは、彼が祈っていた時のことです。神様はアナニアが祈っていたとき、ご自分の御心を示してくださったのです。クリスチャンとは、祈りを通して神様の声を聞き、行動する人です。祈る人に神様は働きかけてくださるのです。
 それはサウロも同じでした。11節「彼は今祈っている」とあります。サウロはダマスコにいた三日間、目は見えず、何も飲み食いしませんでした。飲み食いしなかったのは、祈っていたからです。サウロはダマスコにいた三日間、断食して祈っていた。その祈りの中で、アナニアという人がやって来て、自分の上に手を置くと、目が見えるようになるということを、幻で示されていたのです。サウロもアナニアも、共に祈りの中で神様に導かれていきました。祈りは聞かれます。祈る人に主はご自身の御心を示し導いてくださいます。そして、決して救われることがないと思われたサウロが救われるという、驚くばかりの御業をなしてくださいました。
神様はこのような御業をその後も数えきれないほど示してくださいます。復活されたイエス様は迫害者サウロを、使徒パウロという神様の忠実な伝道者として用いてくださいました。パウロやペトロや使徒たちを通して、その後も、神様の愛と真理の物語は続いていきます。その物語は今も続いています。ですから、私たちは神様の御心を信じて祈らなければなりません。
名前を呼ばれて「主よ、ここにおります」と答えることのできるような信仰生活を歩みたいと思うのです。そして、「行け。私の名を運ぶために、私が選んだ器である」という言葉に従って、それぞれの道を歩んでいきましょう。お祈りをいたします。