【聖霊と教会について③】(信仰の基本シリーズ3)

全7シリーズ  各3回 月曜-水曜
「私も言っておく。あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てよう。陰府の門もこれに打ち勝つことはない。」 (マタイによる福音書16章18節)
 イエスさまは、ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白をした時「私はこの岩の上に」、つまり弟子たちの信仰を土台にして「教会」を立て上げると言いました。そして、教会とはギリシア語でエクレシアといい「呼び集められた者たち」という意味です。ですから教会とは礼拝堂の建物のことではありません。イエスさまに呼びだされた「集り」を教会というのです。教会とは「私たち」であり、一人ひとりが教会の一部です。弟子たちが集められていた、その「集まり」に聖霊が注がれました。このペンテコステ(聖霊降臨)の日が教会の誕生の日です。 教会であることのしるしは二つあります。神の言葉である聖書が正しく「説教」されること、そして「聖礼典」である洗礼と聖餐が執行されていることです。 教会は何のために存在するのでしょうか?その目的は「宣教」です。カンバーランド長老教会の信仰告白5.00には「神は宣教のために教会を立てられる」とあり、教会の目的の第一は宣教だと宣言しているのです。イエスさまの生涯も「神の国は近づいた」と罪の赦しと永遠のいのちの福音を宣べ伝えることでした。弟子たちは「この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」(使徒5:20)との言葉に従い教会を建て宣教しました。 教会はキリストの体であり、体は一つ。しかし多くの部分からなっていると使徒パウロは言います(1コリント12:12-31)。その部分として教会員一人ひとりを体の部位で表しています。ある人は目、ある人は耳、口、足、手というように、それぞれ個性と役割は違うのですが、相互に関連し合い、一つの体となり、一致しているのが教会です。 多様性がありながら一致があります。何でも「一緒」ではなくとも、メンバーシップをとった教会に賜物をさしだし、宣教のために一致していること。互いに励まし合い、戒め合い、特に弱い立場の人、困難の中にある人が大切にされ、一致へと成長していく教会がキリストの体としての教会なのです。
《祈り》神さま、私は教会を批判していました。教会の判断に憤りがありました。しかし、私たちが教会であり、私はその一部なのだと気づかされました。私にイエス・キリストを主と、共に告白する繋がりを与えてくださり、ありがとうございます。
牧師 和田一郎
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