私たちの心は燃えていた

「二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は互いに言った。『道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。』」 (ルカによる福音書24章31-32節)
 イエスさまの弟子たちが二人、エルサレムから11km離れたエマオという村へと向かっていました。そこにひとりの人が近づいてきて二人に声をかけました。それは何と復活したイエスさまでした。しかし、二人はそれに気がつきません。エマオまでの道のりを共に歩み、ずっと聖書に何が書かれているかを語って下さったのです。一緒に食事をしていると、二人の目が開けイエス様だと分かりましたが、その姿は消えてしまいました。しかし「聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか」と、彼らは元気を取り戻しました。 これと同じようなことが、私たちの人生にも起こります。弟子たちがイエスさまだと気づかなかったように、私たちもイエスさまの語りかけに気づかないことがあります。 ドイツのメルケル元首相は、ある日ガリラヤ湖のほとりにある修道院を訪れたそうです。そこに一人の修道士がいました。彼はヨルダンとの国境付近で大変困難な仕事をしていたそうです。その厳しい仕事の合間にメルケル氏をガリラヤ湖畔に案内して言ったそうです。 「ごらんください、ここからイエスは山を下りて湖畔に立ったのです。すぐ近くの入江で漁師のペトロに会いました。そこから少し行ったところで、五千人を養う奇跡が起きました。そこからイエスは船に乗り、あそこで嵐の日のできごとがあったのです!」と聖書に書かれた物語を自分が見たかのように話した。その言葉を聞いて「羨ましい」と思えたというのです。彼は厳しい生活のなかで、ここでかつて起こったイエスさまの出来事が生きる力の源になっている。 「私の信仰は彼ほど確信があるわけではありません。私は時には疑いも抱きます」と。(「私の信仰」A.メルケル著) 私たちは生きたイエスさまを心に浮かべる時「私たちの心は燃えていた」と信仰のともし火を燃やすことができるのです。
《祈り》イエスさま、いま心の耳を澄まします。あなたは今も私に語ってくださいます。弟子たちに語られたように、あなたの声を私の心に響かせてください。
牧師 和田一郎
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