罪の告白ができる場所
「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。」 (ルカによる福音書15章18節)
ある人が風の強い日、急ぎ足で駅に向かう途中、傘が広がったまま飛んできて目の前の柵に引っかかりました。誰かがさしていた傘が風でとばされてしまったのだろう。「危ないな」そう思いましたが先を急ぐので通り過ぎました。すると後ろの方で年老いた女性の悲鳴がして振り向いた。傘が風で飛ばされ顔に当たってうずくまっている。気になったが急いでいたので近くの人が介助するのを確認して駅に向かいました。危ないと思っていたのに何もしなかった自分、それを責める人は誰もいません。でも「それでいいのか?」という思いが残っていました。 新約聖書に出てくる放蕩息子は、父の好意でゆずり受けた財産を使い果たした時に、悔い改めました。「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」という悔い改めの祈りです。 キリスト教会は、自分の罪を悔い改めることを大切にしてきました。「きょうだいがあなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところでとがめなさい。言うことを聞き入れたら、きょうだいを得たことになる。」(マタイ福音書18:15) 「とがめなさい」という言葉は「光の中に置く」という意味があります(『慰めのコイノーニア』5章 加藤常明)。つまり、罪という心の中の闇にあるものを、神の光にあてるというのが悔い改めです。カトリック教会では「告解」と呼ばれる秘跡があります。礼拝堂の中に小さな告解室という部屋があり、司祭と二人だけになって罪を告白ができる場所です。人には言えないような罪、世間的には咎められないが、何か後ろ髪をひかれるようなこと。他人には正当化できるが、自分の良心に照らしてみると罪の意識を感じる・・・それらを神の光の中に置いて赦しを乞うことができるのです。 宗教改革者のカルヴァンは礼拝の中に悔い改めの要素を入れました。それが罪の告白の祈りとして長老教会では今でも大切にされています。 「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり監督者である方のもとへ立ち帰ったのです。」(1ペトロ手紙2:25)
《祈り》神さま、私は日々罪を犯すような人間ではないと思ってきました。人に迷惑をかけないどころか、多少は人の役にたっているのだと。しかし、それはあくまでも世間的な基準による自己評価に過ぎないのです。どうか、あなたの光を照らしてください。
牧師 和田一郎
ご感想は下まで(スマホ・パソコンの方向けです) forms.gle/EkE9N8gDaJQ7ee2L9
発行者名 高座教会 www.koza-church.jp/
ある人が風の強い日、急ぎ足で駅に向かう途中、傘が広がったまま飛んできて目の前の柵に引っかかりました。誰かがさしていた傘が風でとばされてしまったのだろう。「危ないな」そう思いましたが先を急ぐので通り過ぎました。すると後ろの方で年老いた女性の悲鳴がして振り向いた。傘が風で飛ばされ顔に当たってうずくまっている。気になったが急いでいたので近くの人が介助するのを確認して駅に向かいました。危ないと思っていたのに何もしなかった自分、それを責める人は誰もいません。でも「それでいいのか?」という思いが残っていました。 新約聖書に出てくる放蕩息子は、父の好意でゆずり受けた財産を使い果たした時に、悔い改めました。「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」という悔い改めの祈りです。 キリスト教会は、自分の罪を悔い改めることを大切にしてきました。「きょうだいがあなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところでとがめなさい。言うことを聞き入れたら、きょうだいを得たことになる。」(マタイ福音書18:15) 「とがめなさい」という言葉は「光の中に置く」という意味があります(『慰めのコイノーニア』5章 加藤常明)。つまり、罪という心の中の闇にあるものを、神の光にあてるというのが悔い改めです。カトリック教会では「告解」と呼ばれる秘跡があります。礼拝堂の中に小さな告解室という部屋があり、司祭と二人だけになって罪を告白ができる場所です。人には言えないような罪、世間的には咎められないが、何か後ろ髪をひかれるようなこと。他人には正当化できるが、自分の良心に照らしてみると罪の意識を感じる・・・それらを神の光の中に置いて赦しを乞うことができるのです。 宗教改革者のカルヴァンは礼拝の中に悔い改めの要素を入れました。それが罪の告白の祈りとして長老教会では今でも大切にされています。 「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり監督者である方のもとへ立ち帰ったのです。」(1ペトロ手紙2:25)
《祈り》神さま、私は日々罪を犯すような人間ではないと思ってきました。人に迷惑をかけないどころか、多少は人の役にたっているのだと。しかし、それはあくまでも世間的な基準による自己評価に過ぎないのです。どうか、あなたの光を照らしてください。
牧師 和田一郎
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