何かで繋がる家族
「イエスは、『私の母、私のきょうだいとは誰か』と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。『見なさい。ここに私の母、私のきょうだいがいる。神の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。』」 (マルコによる福音書3章33-35節)
映画『万引き家族』(是枝裕和監督)は、血の繋がりのない人たちが寄り添いながら暮らす姿を描いています。東京の下町の古びた家に集まった6人は、年金とわずかな日雇い、そして万引きで生計を立てながら、肩を寄せ合って生きています。家出した者、虐待から逃れた者、孤独を抱えた者・・・。 それぞれが社会の隅に追いやられ、傷を負いながらも、そこで「家族」のように暮らしていたのです。彼らは一人として血縁関係はなく、「犯罪」によって繋がっていました。 海辺で遊ぶシーンで、老女が「こんなの長続きしないよ」とつぶやくと、母親役の信代が「血が繋がってない方がいいってこともあるじゃん」と返す場面があります。それは、「不安」を寄せ合って繋がる関係は脆弱だけれども、温かさがあったからです。物語の終盤、警察から事情聴取され「子どもは、あなたのこと何て呼んでました? ママ? お母さん?」と聞かれ、「何だろうね・・・何だろうね」としか答えられない。繋がっていたけれど、その関係性を表す言葉が見つからなかったのです。 『万引き家族』に登場する人々は、社会の規範から見れば「偽物の家族」かもしれません。しかし血縁や家制度を越えた「繋がり方」もあると考えさせられます。 「私の母、私のきょうだいとは誰か」と、イエスさまは家族について問われました。そして、血縁や家制度を越えた、新しい「神の家族」のあり方を示されました。 それは「神の御心に生きる人たちこそが本当の家族だ」という宣言です。家族とは血の縁を超えて、神の愛で繋がれるという希望があるのです。誰かを受け入れ共に食卓を囲むとき、そこに神はおられる。イエスさまが示された「神の国」は日々の食卓の中に始まっています。
《祈り》神さま、うちの家族には、他人に言えないような恥ずかしいところがあります。家族なのに傷つけ合って、うちの家族は失敗だらけです。しかし、一人では生きていけません。キリストにあって「何か?」で一つになれますように。
牧師 和田一郎
ご感想は下まで(スマホ・パソコンの方向けです) forms.gle/EkE9N8gDaJQ7ee2L9
発行者名 高座教会 www.koza-church.jp/
映画『万引き家族』(是枝裕和監督)は、血の繋がりのない人たちが寄り添いながら暮らす姿を描いています。東京の下町の古びた家に集まった6人は、年金とわずかな日雇い、そして万引きで生計を立てながら、肩を寄せ合って生きています。家出した者、虐待から逃れた者、孤独を抱えた者・・・。 それぞれが社会の隅に追いやられ、傷を負いながらも、そこで「家族」のように暮らしていたのです。彼らは一人として血縁関係はなく、「犯罪」によって繋がっていました。 海辺で遊ぶシーンで、老女が「こんなの長続きしないよ」とつぶやくと、母親役の信代が「血が繋がってない方がいいってこともあるじゃん」と返す場面があります。それは、「不安」を寄せ合って繋がる関係は脆弱だけれども、温かさがあったからです。物語の終盤、警察から事情聴取され「子どもは、あなたのこと何て呼んでました? ママ? お母さん?」と聞かれ、「何だろうね・・・何だろうね」としか答えられない。繋がっていたけれど、その関係性を表す言葉が見つからなかったのです。 『万引き家族』に登場する人々は、社会の規範から見れば「偽物の家族」かもしれません。しかし血縁や家制度を越えた「繋がり方」もあると考えさせられます。 「私の母、私のきょうだいとは誰か」と、イエスさまは家族について問われました。そして、血縁や家制度を越えた、新しい「神の家族」のあり方を示されました。 それは「神の御心に生きる人たちこそが本当の家族だ」という宣言です。家族とは血の縁を超えて、神の愛で繋がれるという希望があるのです。誰かを受け入れ共に食卓を囲むとき、そこに神はおられる。イエスさまが示された「神の国」は日々の食卓の中に始まっています。
《祈り》神さま、うちの家族には、他人に言えないような恥ずかしいところがあります。家族なのに傷つけ合って、うちの家族は失敗だらけです。しかし、一人では生きていけません。キリストにあって「何か?」で一つになれますように。
牧師 和田一郎
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