その命令は愛だった
「地を造り、その上に人間を創造したのは私だ。私はその手で天を広げ その万象に命じた。」 (イザヤ書45章12節)
人間の出発点はどこにあるのでしょうか?この世界も人間も神さまの被造物です。そのことを日常の生活の中であらためて意識することは少ないかも知れません。あるたとえ話があります。 ある日、南の島に飛行機が飛んできて、浜辺に一つの腕時計を落としていきました。それを見つけた村人たちは、その不思議な物体に興味津々で集まりました。つるつるして冷たく、チクタク音を立てる時計を、村人たちは観察し始めました。長い針が一周すると、短い針が少し動く。グルグル回って一日たつと針は元の位置にピッタリもどる。太陽や月の動きと連動しているではないか。 ある者は「この時計が太陽を動かしているのかもしれない」と考えるほどでした。熱心に観察し続ける者が言いました。「これは自然の秩序と繋がっている、規則正しく美しい、偶然にできたものではない。大いなる作り手がいるに違いない」。誰一人として「これは何もないところから自然に現れた」とは考えませんでした。ところが月日が過ぎ村人たちの知恵が増して「私たちは時計がどのように動いているかだんだん分かってきた。この世界のことも解明できるようになった。説明できる」。そして、「時計のことはだいたい分かった。これを作ったのが誰だか考える必要もないし、どうでもいい」と言うようになってしまいました。 時計の仕組みが分かったからといって、時計の造り手の存在は否定できません。おなじように、自然の仕組みを解明できるようになってきたからといって、創造主を否定してしまうのは間違えです。 預言者イザヤの言葉は、私たち一人ひとりが偶然に存在しているのではなく、神さまの意志によって造られたことを示しています。「命じた」とは、私たちの命には意味があり、存在には目的があると宣言しているのです。
《祈り》主よ、自分の価値がわからなくなったとき、雨上がりの夕日を見て「私を造った神がいる」と気づきました。創造主なる神さま、あなたがこの私を意志をもって造られました。あの夕日を造られたように、この私を・・・。ありがとうございます。
牧師 和田一郎
ご感想は下まで(スマホ・パソコンの方向けです) forms.gle/EkE9N8gDaJQ7ee2L9
発行者名 高座教会 www.koza-church.jp/
人間の出発点はどこにあるのでしょうか?この世界も人間も神さまの被造物です。そのことを日常の生活の中であらためて意識することは少ないかも知れません。あるたとえ話があります。 ある日、南の島に飛行機が飛んできて、浜辺に一つの腕時計を落としていきました。それを見つけた村人たちは、その不思議な物体に興味津々で集まりました。つるつるして冷たく、チクタク音を立てる時計を、村人たちは観察し始めました。長い針が一周すると、短い針が少し動く。グルグル回って一日たつと針は元の位置にピッタリもどる。太陽や月の動きと連動しているではないか。 ある者は「この時計が太陽を動かしているのかもしれない」と考えるほどでした。熱心に観察し続ける者が言いました。「これは自然の秩序と繋がっている、規則正しく美しい、偶然にできたものではない。大いなる作り手がいるに違いない」。誰一人として「これは何もないところから自然に現れた」とは考えませんでした。ところが月日が過ぎ村人たちの知恵が増して「私たちは時計がどのように動いているかだんだん分かってきた。この世界のことも解明できるようになった。説明できる」。そして、「時計のことはだいたい分かった。これを作ったのが誰だか考える必要もないし、どうでもいい」と言うようになってしまいました。 時計の仕組みが分かったからといって、時計の造り手の存在は否定できません。おなじように、自然の仕組みを解明できるようになってきたからといって、創造主を否定してしまうのは間違えです。 預言者イザヤの言葉は、私たち一人ひとりが偶然に存在しているのではなく、神さまの意志によって造られたことを示しています。「命じた」とは、私たちの命には意味があり、存在には目的があると宣言しているのです。
《祈り》主よ、自分の価値がわからなくなったとき、雨上がりの夕日を見て「私を造った神がいる」と気づきました。創造主なる神さま、あなたがこの私を意志をもって造られました。あの夕日を造られたように、この私を・・・。ありがとうございます。
牧師 和田一郎
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