かけがえのない時を過ごす
「十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。」 (マタイ25:1−3)
以前、『聖書に学ぶ子育てコーチング』という本を読みました。『境界線―バウンダリーズ』で話題になったヘンリー・クラウドという人が書いた本です。ひと言で言えば、子離れ・親離れの本です。
子どもが生まれてきた時に、食事から始まり、排せつ、そして服の着せ替え、一から十まで親がかりです。でも子どもが成長するに従い、自分で食べるようになり、トイレに行くようになり、そして服も自分で着たり脱いだりするようになります。
私たちは、子どもが生まれた時には、一から十まで全部を親がやっていたように思っているのですが、実はそれは錯覚であるとクラウドは言うのです。ミルクを作り、子どもの口元まで持っていきます。しかし、そのミルクを飲むかどうかは、子ども自身がすることで、誰であっても子どもに代わってやることのできない領域です。
私たち1人ひとりの人間は、親子であっても夫婦であっても、とって代わることのできない大切な存在なのだということなのです。
今日の箇所は「十人のおとめ」のたとえの冒頭です。
花婿が到着したとき、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、愚かなおとめたちは油を買いに行く間に、戸が閉められてしまったというたとえですが、イエスさまは、この10人のおとめに与えられた責任・役割が、本当に晴れがましく、しかも大切なものであることを確認しています。
その一方で、この役割は他の人が代わり得ない重要なものなのだということを教えています。
私たちは会社の中で、また家庭の中で、あるいは地域社会の中で、それぞれ他の人が代わることのできない役割をもっているのではないでしょうか?
そして、その務めに精一杯生きることが、私たちには求められているのです。しかも、そうした務めに生きるということは、ある意味で、婚宴の喜びを共にするように、人生で1回限りのかけがえのない時です。実は、私たちはそうした時を、日々生きているのだと思うのです。
イエスさまは、本当に大切なことを大切にする生き方をするようにと教えています。
いってらっしゃい
牧師 松本雅弘