神さまのやさしさ
「どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。」
(ルツ記2:12)
ルツ記には「モアブ」という言葉が何度も出て来ます。当時の人々がルツの存在を、ある種の偏見をもって見ていたことが分かります。ところが?ボアズはそうした偏見から自由な人でした。
高史明(コ・サミョン)さんという詩人がいます。在日朝鮮人の方です。彼は自分の生い立ちを『生きることの意味』という書物に著しました。幼年時代は、偏見を肌で感じるようになり、学校で暴れるようになり、様々な衝突を繰り返していきました。そして最後には死を考えるようにいたったのです。しかし、そのような彼を支えたのは〈人間のやさしさ〉だったことを次のように証ししています。
「わたしは、この〈やさしさ〉という言葉が好きです。〈やさしさ〉とは漢字で書きますと、〈人が憂える〉と書きます。人の世の創造的で素晴らしい関係は、何よりもまず、人が人を憂えることから始まると言えるでしょう。また、〈やさしさ〉とは、考えようによっては、戦後始めて自由に使えるようになった、〈民主主義〉という言葉に置き換えることもできます。
今?この発見は、私にとって、深い力になっています。確かに、人の〈やさしさ〉こそは、人間を生かしていく本当の力になるものだといえます。私は、これからもなお、〈生きることの意味〉を探求し続けて行き、他の人たちの探求に学びながら、その意味を深めて行きたいと思っています。」
ボアズはこのような〈やさしさ〉を知っている人でした。
マタイ福音書のイエスさまの系図の中に、「サルモンはラハブによってボアズを」という言葉が出て来ます。ここに出てくるボアズの母親ラハブはイスラエルの民ではなく、いわゆる「外人」でした。しかも、彼女の職業は「遊女」であったことを聖書は記しているのです。ボアズはこのような生い立ちを持つ者として、生きていく中で主なる神さまとの出会いを経験したのです。
私も神さまの御翼のもとで守られてきた。あなたも、そうした主の御翼の陰に身を寄せているのだから?安心していいのだよ、とボアズは伝えているのです。
それはわたしたちにも語りかけられている神のやさしさの言葉なのです。
いってらっしゃい
牧師 松本雅弘