クリスチャンの幸い
「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」(マタイ5:4)
人間と動物と違う点は「自分は誰か」という問いをもって生きてくことにあるのだそうです。その結果、いつも人と比較し、自分の価値を確認します。ですから常に競争が付きまとうのです。
例えば、あなたの前にあなたよりもほんの少し「優れた」人間が現れたらどうしますか? その人の前にあなたは「より劣った」人間になってしまうでしょう。
こうした生き方を突き詰めると、実は、あなたよりも劣る誰かを生み出し、誰かを見つける生き方になるのではないでしょうか。そこに本当の幸せなんてありません。
ところで、水野源三さんをご存知ですか? 彼は小児麻痺を患い、体が動かず語ることもできなくなりました。でも神さまを信じて人生が変わったのです。そんな彼の詩です。
たくさんの星の中の一つなる地球
たくさんの国の中の一つなる日本
たくさんの町の中の一つなるこの町
たくさんの人間の中のひとりなる我を
御神が愛し救い
悲しみから喜びへと移したもう
神さまを知らず、横と比較する中で自分を見ていたなら、この詩の流れからすれば、小ささや足りなさの故に「何て自分は無価値な者だろう」と深い嘆息をもってこの詩は締めくくられたに違いありません。
字もかけない。声も出せない。おまけに体も動きません。お世話になるだけの者であることを水野さんはよく知っていました。
でも、その彼が神さまを知ったことで、自分に備わる小ささや足りなさの受け取り方が180度変わったのです。
小ささや足りなさが、源三さんの心を不幸な思いへと突き落とすのではなく、逆に小ささや足りなさを抱える「取るに足りない私」をも、神さまは愛し、救ってくださる。
何て素晴らしいお方だろう、と言って、神さまを賛美し、誇り、そして喜びに満たされたのです。クリスチャンの幸いとはこういうものです。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘