神が共におられるのなら
「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」(ローマ8:31−32)
今週の日曜日に、宮城先生の按手・就任式がありました。感染症対策で中会代議員と高座教会の長老たちという限られた出席者で執り行われました。その礼拝で私は、出エジプト記から説教をしました。
モーセはエジプトで奴隷であったイスラエルの民を約束の地へと導くために召されました。荒野で羊の世話をしていた時のことです。不思議と柴が燃えているのに気づき、そこで生ける主なる神と出会ったのです。最初モーセは神からの召しに応答しませんでした。「私が共にいるから大丈夫だ」と言われても、なかなか応じようとしません。
そのような中、モーセは「他の人を遣わしてください」と神に言ってしまうのです。すると今まで忍耐をもって接していた神が、その時、初めて怒られるのです。そして神は助け手にアロンを与えることを示されました。そのとき初めてモーセは「はい、行きます」と召しに応えたという出来事です。
〈不思議だなぁ〉と思いました。主なる神が「私があなたの口と共にあって行こう」と約束されても「行かない」と答えたモーセが、「有能な仲間、アロンがあなたと共に行く」と知らされた途端「行けます」と言うことができました。これがモーセの課題であり、私たちの課題でもあると思ったのです。
「私があなたと共にいる」とおっしゃる全知全能の神が、一体どのようなお方なのかをとことん見ていない。だから自信が湧いてこない。アロンの素晴らしさは見えても、神の臨在に気づけないのです。
今日も、慈しみ深い生ける神さまがあなたと共におられます。力強い御手をもって守っておられるのです。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘