最後に神の御前で問われること

「そこで、王は答える。『よく言っておく。この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。』」(マタイ25:40)
子どもが小さかった頃、たくさんの学習教材のパンフレットが送られてきました。四人分ですから結構な量です。 その時、末の息子に送られてきた手紙を見ましたら、「果物と魚を種類に分けることが出来ますか」とか「しっかりとハサミを使うことが出来ますか」とか、そうした内容の教材が紹介されていました。 子育ても四人目になりますと、「余計なお世話」ということで、中身を空けずに廃品回収やごみ箱に入れてしまうケースも多いのですが、長女の時はどうだっただろう、と思い起こせば、結構、送られてきたものを熱心に見ていたことを思い出します。 「他の子どもに比べて遅れをとったらどうしよう」という不安。知らず知らずのうちに、「他の子よりも、少しでも出来て欲しい」という親としての期待。そうしたものが入り混じっていたように思います。 ところで、私たちは自分に確かなものが無いために自分の外側に絶えず「物差し」を求めて生きることがあります。「学力」や「偏差値」という物差しであったり、「器用さ」という物差しであったり、あるいは会社に入れば「業績」や「人脈」が物を言い始めます。 そうした中イエスさまは「最後に神の御前で問われること」は偏差値でも経歴でも持ち物でもなく、愛が問われると教えてくださいました。 私たちを計る物差しがあるとすれば、それは「どれだけ愛したか」、「日常、出会う人々の隣人となっているか」を、神さまは私たちに問うというのです。 愛に貧しい私ですが、今日もぶどうの木である主につながり愛の実を結ばせていただきたいと思わされます。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘
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