己れが良くて、罪せぬにあらず

「私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っています。自分が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。」 (ローマの信徒への手紙7章19-20節)
 三浦綾子の小説「ちいろば先生」は、戦後活躍された榎本保郎牧師の物語です。戦争中の保郎は軍国青年で、中国大陸に出征していきます。同じ隊でカトリック信者の奥村と出会い二人は一番の親友になります。奥村は軍隊の中でもクリスチャンだと公言しますが、それはとても危険で勇気のいることでした。保朗は「ヤソは嫌いや」と毛嫌いしていましたが、やがて彼らは別々の任務に就くので別れることになりました。二度と会えないかもしれない別れ際に奥村は保朗に「お前が信仰によって救われることを祈っている」と言うのですが、「救いって気持ち悪い!俺は正しく生きているから『罪』なんて犯していないし、これからも犯さん!」と言い張るのです。奥村はカトリックの信者ですが、こんなことを話しました。「お前は、正しく生きていく自信があるから、罪など起こさないと言うが、親鸞というお坊さんが、『己れがよくて、人殺しをせぬにあらず』と言った。つまり、今まで人殺しをしないで生きて来られたのは、自分がよい人間だからというわけではない、そういう立場に立たなかっただけのことだということだと。『己れがよくて、盗まぬにあらず』『己れがよくて、不正をせぬにあらず』だ。」と告げて二人は別れました。  ローマの信徒への手紙を書いたパウロは、信仰者である自分自身が、自分の望む善は行わず、望まない悪を行っていると嘆きます。信仰をもって罪など起こさないと思っていたこの自分が、今でも罪を繰り返してしまう。善をなし、神に従って生きようと努力する、その努力そのものが罪に支配され、神の御心に背いてしまうからです。信仰をもち、善いことをして神に仕えようとしている自分が罪の力にどうしようもなく捕らえられてしまっている現実に愕然とします。その現実を見る必要がないことが「救い」ではありません。むしろキリストによって自分の本当の罪を示されつつ、罪ある自分を知りながら愛してくださるキリストに感謝する者へと変えられたことこそが私たちの救いなのです。  榎本保郎牧師は終戦後、日本に帰国してからそのことを悟り牧師となりました。
《祈り》神さま、私は自分が善人なのか、悪人なのかよく分かりません。しかし、あなたは私がどのような人間であるのかをよくご存じです。自分自身が分からなくても、あなたが知ってくださっているのであれば、それで十分です。知っていてくださることに感謝いたします。
牧師 和田一郎
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