自分の罪に悩む人

「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。『正しい者はいない。一人もいない。』」 (ローマの信徒への手紙3章9-10節)
 ある歴史家は「悪人」という言葉を聞いて、ドキッとして自分のことかと思う人が鎌倉時代は多かったというのです。戦のために人を殺し、食べ物の為に命をとるというのが日常的にあった時代に「自分は悪人」と思う人が多かった、だから法然や親鸞のような「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」と悪人こそが救われるという教えに、多くの人が救いを求めたというのです。今の時代の私たちは「悪人」「罪人」と言われても、「それは自分ではなくて他の人でしょ」と素通りしてしまいます。実は800年も前のあの荒んだ時代の方が罪の意識に敏感であったのかもしれません。鎌倉幕府の実権を握っていくのは北条政子です。その北条政子も、法然に何度も手紙を書いて、教えを願ったと言われています。政権を握るまでに多くの命が奪われた、その権力の中心にいた人にとっても「悪人こそ救われる」という教えが必要であったのでしょう。 新約聖書の時代、ユダヤ人たちは、自分たちは神に選ばれた特別な民族なのだと誇っていました。ギリシア人やその他の異邦人のように、神を知らない者たちとは違い、自分たちは優れた民族なのだと誇っていたのです。使徒パウロは、自分たちユダヤ人も異邦人と全く同じように罪の下にある、正しい者は父なる神と、独り子イエス・キリストだけで人間はみな罪人だと教えました。罪人だから救われる必要があるのです。罪人と認めるから救いの喜びがあるのです。罪を認めない者には、救いの喜びや、感謝は生まれない。 「罪人」と聞いてドキッとして自分のことかと思う人に、喜びと感謝が湧き起こるのです。
《祈り》主よ、私は聖書の学びをして、人は罪人であると知っていました。しかし、心の底では「私は違います!」とつぶやいていました。それがほんとうの救いの喜びを感じられない原因だったのです。いま悔い改めます。私は正しい者ではありません。
牧師 和田一郎
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