隠れたことは父が見ている

「施しをするときは、右の手のしていることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを隠すためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」 (マタイによる福音書6章3-4節)
 ある日、大事な手帳を落としました。クリスマスのプレゼントに妻が買ってくれて1か月も経っていない手帳でした。中には妻からのメッセージカードと息子がいただいたお年玉の現金。どこに落としたのかまったく分かりませんでした。あきらめかけてダメもとで交番に行くと、なんと「届いてます」というので大和警察署に行って中身を見ると現金もカードもそのままでした。警察で拾って下さった方の連絡先を聞き電話をしました。聞くと、その方は御主人と二人で歩いていると、道路にお札と紙がバラバラと散らばっていて、その上を自動車が何台も通り過ぎていってたそうです。それを慌てて拾い集めて交番まで届けてくれたというのです。「お礼に伺いたいので住所を教えてください」と言うと「いえいえ、当たり前のことだから気にしないでください」と丁寧に断られ電話を切りました。私はバラバラになった手帳と中身を、車が行き交う道路で拾い集めてくれたご夫婦の情景が目に浮かびました。何とか名前を手掛かりにしてその方を、落とした場所の近くで捜すことができ、感謝を伝えることができました。 イエスさまの教えで、右手で善いことをしたことを、左手に知られないようにとは、自分でも、施しをしたことを知らないということです。イエスさまは、他人からの評価を望むだけでなく、自分が自分で施しをして満足することにも注意しなさいと言われます。私たち人間が、隣人への愛と憐れみの施しは、父なる神さまからもらった、愛と憐れみが源となっていなければ、神不在、神不要の善行に過ぎません。「善いことをしているのだからいいではないか」と思いがちですが、神を無視した善行は、成り行きの行いにすぎず、神を中心とした生き方から逸れていくのです。居眠りをしている子に、そっと毛布をかける親の気持ちは、その子や他人に知られたいからするのではなく、その子を愛しているからするだけのことです。そこには、もはや親切をしているという意識すらありませんし、神様からもらった永遠の愛と憐れみで愛するならば、天に富を積むことになるのです。
《祈り》主よ、父を見ないで、人からの誉ればかりを望むことがありませんように。
牧師 和田一郎
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