話せばわかる VS 問答無用

「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならないはずです。」彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。」 (ヨハネによる福音書9章32-34節)
 見えない目を癒された人は、「お前はイエスのことを何者だと思うのか?」とファリサイ派の人々に尋問されました。彼らは、安息日を破っているイエスは罪人であると断言していました。しかし目を癒された人は、神のもとから来たのでなければ、生まれつき目が見えなかった自分を癒せるはずはありません、と言ったのです。 ファリサイ派の人々は「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言って彼を外に追い出したのです。「外に追い出した」というのは、ユダヤ人の共同体から追い出した、つまり問答無用で村八分にされたのです。問答無用で人を裁く。彼らはそれを繰り返します。その後、イエスさまを裁判とはいえない不当な裁判に引き出し、総督に圧力を加えて問答無用で死刑にしたのです。人は問答無用で人を裁く罪を繰り返してきました。  「問答無用!撃て」と叫び、時の首相、犬養毅に引き金を引いた将校たち。1932年の五・一五事件でした。暴走する軍の行動を憂慮していた犬養総理大臣。彼の住む官邸に乗り込んだ血気にはやる将校たちに犬養は「まあ待て、あっちへ行って話を聞こう。話せばわかる」と落ち着いた声で奥の大広間へ案内しましたが、将校たちは「問答無用」と銃撃したのです。犬養毅の「話せばわかる」に対して「問答無用」と答えた大日本帝国の将校。それぞれの言葉は双方の考え方を象徴するものとして今に知られています。 今を生きる私たちの社会も「話し合おう」と務めることが後回しになっているような気がしました。問答無用でクレームを言う、問答無用でレッテルをはる、問答無用で戦争をする、問答無用で人を裁きつづけている。お互いの誤解や勘違いは、話し合わなければ気づかない。主イエスは言われました。「聞く耳のある者は聞きなさい」(マルコ4:9)
《祈り》憐みのこころをもつ主よ、私から傲慢な力を取り去ってください。この力があるがゆえに、驕り高ぶり、力まかせになるのです。この力ゆえに問答無用に人を裁き、立ち居振る舞うのです。どうかこの私に弱さを与えてください。
牧師 和田一郎
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