これは水です

「そこで、イエスは言われた。『清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を崇めるために戻って来た者はいないのか。』それから、イエスはその人に言われた。『立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』」 (ルカによる福音書17章17節)
 アラスカのある店で二人の男が話している。一人は信仰深い男、もう一人は無神論者。無神論者は言った「先月、猛吹雪の中で迷子になったんだ。もう助からないと思い、雪の上にひざまずき『神よ、もしおられるなら助けてください、私は死んでしまいます!』と叫んだんだ」。信仰者は「それなら、君も神さまを信じるべきだろ。結局、生きてここにいるんだから」と。しかし、無神論者はあきれて言った。「そうじゃない。二人のイヌイット(現地人)が通りかかって助かったんだよ。神ではなく、たまたまだ。」と。 この話が問いかけているのは「神がいるか、いないか」という単純な議論ではありません。同じ出来事でも、どのように意味づけるかは、その人の「思い込み」という初期設定に左右されるということです。人は皆、自分の考えを「当然」という前提で生きています。深海魚が「水」の存在に気づかないように、私たちもまた、自分の思い込みの中で生きているのです。 (2005年D・Fウォレスのスピーチ『これは水です』より) ルカ書17章は、主イエスに重い病をいやされた十人の話です。彼らは皆、同じ奇跡を経験しました。しかし、感謝して神を賛美しに戻って来たのは一人だけでした。九人は「運がよかった」「回復したのは当然だ」と思ったのかもしれません。出来事は同じでも、受け取り方が異なるのです。 あの吹雪の中で通りかかったイヌイットの存在を「たまたま」と呼ぶのか、「恵み」と呼ぶのか。そこに人生の分かれ道があります。私たちの毎日にも、イヌイットのような小さな助けが満ちています。家族、友人、教会、見知らぬ誰かの親切。その一つ一つを「上からの賜物」(ヤコブ1:17)として受け取るとき、世界は偶然の集まりではなく、恵みに満ちた「神の国」へと変わります。 私たちが偶然のように思える助け。その背後にある大きな存在を感じ取るかどうか。偶然でもない、自分の力でもないのでは?と問う時、初めて「水」の存在に気づきます。 それが信仰の眼差しではないでしょうか。
《祈り》偶然に見える出来事の中に、主よ、あなたがおられます。自分の思い込みに閉じこもるのではなく、謙遜になって、あなたの働きを見る、信仰の目をお与えください。
牧師 和田一郎
ご感想は下まで(スマホ・パソコンの方向けです) forms.gle/EkE9N8gDaJQ7ee2L9
発行者名 高座教会 www.koza-church.jp/