「荒れ野でも神は共にいてくださる」 その時モーセは考えた③

全12回 月曜-火曜 「モーセがその父親と住むことを望んだので、父親はその娘ツィポラをモーセに与えた。彼女は男の子を産み、モーセはその名をゲルショムと名付けた。「私は異国の地で寄留者となった」と言ったからである。」 (出エジプト記2章21-22節)
 モーセは、エジプトで失敗をしました。落胆し、荒れ野へと逃れることになりました。彼がたどり着いたのはミディアンという荒れ野の地です。かつて王宮で育ち、「自分こそが同胞を導く者だ」と熱い思いを燃やしていたモーセにとって、ミディアンでの生活は挫折と沈黙の時でした。 そこは約束の地でもなく、使命が与えられる場所でもありません。まさに「異国の荒れ野」でした。その土地でモーセは妻を迎え子が与えられます。子の名を「ゲルショム(私は異国に寄留する者)」と名づけました。この名には自身の実感が込められています。自分はどこにも属していない者、居場所を失った者だという思いです。エジプトにも戻れず、ただ荒れ野で羊を飼う日々。その四十年は、何も起こらない空白の時間のように見えます。 しかし聖書は、この「何も起こらない時間」を無意味だとは語りません。神はモーセを急いで用いようとはされませんでした。彼の力や情熱ではなく、彼の心に「謙遜」な心を整えるために、長い静かな時を与えられたのです。 詩編66編10節はこう語ります。「神よ、あなたは私たちを試み 火で銀を練るように私たちを練った」。銀が火によって不純物を取り除かれるように、神は人を試し、整え、深めていかれます。荒れ野の四十年は、モーセから驕りや焦りを取り除き、神の声に耳を澄ます人へと変えていく精錬の時でした。 私たちも人生の中で「異国の荒れ野」と思える時があります。思い描いていた道から外れ、役割も見えず、ただ日々をやり過ごすような時です。しかし、むしろ神はその静けさの中で、私たちを形づくっておられます。落胆という荒れ野は終わりではない。神の御手の中で、次の使命へと備えられる大切な時。異国の荒れ野にも、確かに神はおられます。 その時モーセは考えた「落胆のこの日々に、神は新しい自分へとつくり変えておられる」
《祈り》主よ、先が見えず、自分の居場所が分からなくなるような、人生の荒れ野を歩むことがあります。試みの中で私たちの内を整えてください。荒れ野でも共にいてくださる主イエスの御名によって祈ります。アーメン。
牧師 和田一郎
ご感想は下まで(スマホ・パソコンの方向けです) forms.gle/EkE9N8gDaJQ7ee2L9
発行者名 高座教会 www.koza-church.jp/