生れた時も、死ぬ時も別々の間柄

「友はどのような時でも愛してくれる。兄弟は苦難の時のために生まれる。」 (箴言17章17節)
 落語「粗忽長屋(そこつながや)」という、おもしろい言葉があります。 話のスジは、粗忽な(そそっかしい)男、八五郎が人だかりに興味を惹かれて覗いてみるところから始まります。 そこに行き倒れの死体があった。その死体の顔を親友の熊五郎と勘違いしてします。「この死体、あんたの知り合いかい?」と聞かれて、「こいつとは兄弟分だよ!生まれた時は別々だが、死ぬ時は別々の間柄だ!」 と言って、そそっかしい八五郎は、熊五郎の家に行くと、これまたそそっかしい熊五郎がいて、無理やり現場へ連れて行って「おまえの死体だ」と言って確認させる、熊五郎は「間違いなく俺だ」と認めてしまうというナンセンスな会話が進んでいきます。熊五郎は自分に似た死体を担いで家に帰ろうとするが、「死んでいるのは俺だ・・・で、抱いている俺は誰だろう・・・?」というオチで終わります。 つじつまの合わない話ですが「こいつとは兄弟分だよ!生まれた時は別々だが、死ぬ時は別々の間柄だ!」とテンポよく噺家が語ると不思議と胸に伝わるものがあって、私の好きな台詞なのです。江戸の町の片隅で、同じ長屋で育った幼なじみの素朴な友情が、その一言に凝縮されているからです。 血のつながりはない。生まれた家も違う。それでも「兄弟分」と呼び合う関係がある。 旧約聖書の「箴言」は、神の知恵によって正しく生きるための言葉を集めた書物です。そこに「友はどのような時でも愛してくれる。兄弟は苦難の時のために生まれる」とあります。人生には、思いがけない出来事が起こります。病気、失敗、孤独。そんな時、人はふと気づきます。「本当に大切な人は誰なのか」ということに。 教会では、互いを「兄弟姉妹」と呼びます。それは血縁だからではありません。神を父とする「神の家族」として結ばれているからです。落語では、そそっかしい二人が「俺が死んでいるのか、それとも生きているのか」と騒ぎになりますが「神の家族」は、生きていても死んでいても絆は続きます。人は一人では生きられません。だから神は、友を与えてくださいます。その友は、苦難の時にこそ、兄妹として私たちのそばにいてくれるのです。
《祈り》愛なる神さま。主イエス・キリストが私たちを友と呼び、命をもって愛してくださったように、私たちもまた互いに愛し合う者としてください。
牧師 和田一郎
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