真実だからこそ危ういのです

「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」 (マタイによる福音書 10章34–36節)
 京都の円山公園の一角に、法然が教えをひろめるために住んでいた吉水草庵跡とされる寺があります。鎌倉時代、親鸞が「自分は苦行を重ねても救われていない」と行き詰っていた時、法然の説法を聞きに毎日通っていた場所です。法然に「私の話を聞いてどう思った?」と聞かれた親鸞は「危うい」と答えた。その真意を問われ親鸞は答えたのです。 「法然上人さま、真実の言葉を語れば、かならず周囲の古い世界と摩擦をおこすものです。できあがった体制や権威は、そんな新しい考えかたや言動に不安をおぼえることでしょう。 おそれながら、法然さまの説かれることの一つ一つが鋭い矢のように彼らの胸に突き刺さり、肉をえぐるのです・・・知識も捨てる。 学問も捨てる。難行苦行も・・なにもかも捨てさって、あとにのこるただ一つのものが念仏である、と説かれております。これまでそのような厳しい道にふみこまれたかたは、だれ一人としておられません。それが真実だからこそ「危うい」のです。危うければこそ真実だと、わたくしは思いました。ぜひ、この親鸞を、門弟の末席にくわえさせてくださいませ」(『親鸞』五木寛之著) イエスさまが「剣をもたらす」と言ったのは、人を傷つけるのではなく、真実が人の心を切り分けるからです。イエスさまの言葉は、私たちの思いや常識を揺さぶり、時に対立や痛みを生みます。しかしその「切り分け」は、偽りと真実を分け、古いものから新しい命へと導くためのものです。親鸞が感じた「危うさ」とは、まさにその鋭さです。福音という剣は、自己中心という罪を切り分け、ただ神の恵みに立たせる力です。
《祈り》神さま、あなたの御言葉は、私たちに安らぎだけでなく、時に痛みをもたらします。しかしそれは、私たちを滅ぼすためではなく、真実へと導くためであることを覚えます。私たちが「危うい」と感じる道であっても、そこにこそあなたの恵みがあることを信じて歩ませてください。
牧師 和田一郎
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