イエスを仰ぎ見る

「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」
(ヨハネ3:14−15)

 洗礼を受ければ、何でもうまくいくようなことはありません。イエスさまですら、ご自身が洗礼を受けた後、やはりサタンの試練に遭いました。
聖書が教える大切なことは、困難のただ中でイエスさまを見上げる時に、初めて困難に立ち向かう御言葉が与えられるということです。
 モーセの時代、荒野に蛇がいなくなることはありませんでした。彼らがすべきことは、噛まれたら、ただ青銅の蛇を仰ぐだけだったです。
 私たちの生活にも問題が起こります。そうした場合、聖書が勧めることは、そこから逃げることではないのです。
逃げたら蛇が追ってくるかもしれません。そうではなく、困難のただ中にあって神さまを仰ぐこと、礼拝の中で、困難に立ち向かう御言葉を待ち望むことです。
そうしますと、その先にある祝福に出会うのです。

 ある人々は十字架を見ないので自分の罪が分かりません。人と比べたら、少しましであると思って、結局、洗礼まで導かれない。人と比べても罪は絶対に分かりません。
でも十字架に上げられたイエスさまを仰ぐなら、どうでしょう。神の独り子が死ななければならなかったほどに、自分の罪が重かったことが初めて分かるのですね。

 ある人々は赦しが実感できません。それは十字架を見上げていないからです。
十字架を見上げるならば、イエスさまが死んでくださったほどにあなたを愛してくださっているということがはっきりと分かります。

 日常の様々な問題に直面します。しかしその渦中で、「すべて重荷を負うて苦労している者は私のもとに来なさい」と言われるイエスさまを見上げるのです。
そしてそこに赦しがあり、癒しがあるのです。これが福音だからです。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA