アカンの罪

「イスラエルの人々は、滅ぼし尽くしてささげるべきことに対して不誠実であった。ユダ族に属し、彼の父はカルミ、祖父はザブディ、更にゼラへとさかのぼるアカンは、滅ぼし尽くしてささげるべきものの一部を盗み取った。
主はそこで、イスラエルの人々に対して激しく憤られた。」(ヨシュア7:1)

 イスラエルの兵士3千人の中にアカンという人物がいました。新共同訳で「滅ぼし尽くせ」と日本語になっています言葉は、別の訳では「聖絶せよ」と訳されていました。つまり「聖別せよ、神さまのものとせよ」という意味です。
ところがアカンは、神さまのものとする代わりに自分のものとしてしまった。3千人の兵士の中で、アカン1人が欲に駆られてかすめ取ってしまったわけです。でも、ここで1つ注意したいことがあります。
聖書は、アカン1人ではなくイスラエルの民全体が罪を犯したこととして語るのです。

 私はあらためて自分の罪、自分1人の不熱心が周りに及ぼす影響の重大さを知らされた思いがします。パウロは「あなたがたはキリストの体であり、1人ひとりは部分なのです」と言いました。
「喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者と共に悲しむ」と言いました。それは私たちが1つの体に属することを前提にしています。
 例えば、手が何かを盗み取ってしまった時に「お前は何てことをしたのだ」と言って手をたたき「私には関係がない」と言って知らん顔は出来ないと聖書は言うのです。
もっと言えば、良きにつけ悪しきにつけ、私たちは互いに影響しあって高め合うこともあり、足を引っ張り合うこともありうる。アカン1人の罪でありましたが、それは共同体全体に影響をもたらしたのです。

 今、社会に様々な問題が起こっています。一見、私たちの生活と無関係のように見えますが、実はその責任の一端を私も担っているのです。心に留まる問題があったら、まず祈るところから始めましょう。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

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