十字架の前に立つ
「イエスが言われた。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』」(ルカ9:20)
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いかけは、全ての人が、人生のどこかの場面で一度立ち止まって考えるべき「本当に大切な問いかけ」だと思います。
救世軍創立者のブース大将がある時、夢を見ました。キリストが釘づけられた十字架の目の前に自分が立たされているという夢です。
その苦しみを見るに忍びない。何とかしてお助けしたいと思うのですが、夢の常として足が進みません。
いらいらしている時、ひとりの小柄な男がはしごを担いで十字架に行き、それを上っていったのです。ああよかった、救いに行った人がいたと思ったのです。
するとどうでしょう。その男はにわかに腰から金槌をとって釘が抜けないように、さらに打ち込んだのでした。そして振り向いてニヤリと笑ったその男の顔を見たら、それが自分の顔だったというのです。
イエスさまの御前に自らを顧みる時、誰一人として罪がないと言える人があるでしょうか。イエスの十字架において全ての人の罪が明らかになります。
そうした罪や心の飢え渇きや、何とも処理できない不安感が私の心の中にあるのだということを認めることが解決の第一歩です。
自分の内面を見つめるには勇気がいります。でもキリストの十字架において、神は他人の罪ではなく、この私の罪を示されます。
それはこの私の罪を十字架において清めるためですね。イエスさまはそれをご自身の背に引き受け、十字架の上ですべての罪を滅ぼしてくださいました。
神は独り子をお与えになるほどに、私たちを愛してくださいました。愛される価値のない罪人を何が何でも救おうとして十字架という最終手段をとられた中に、神さまの愛が現されたのです。
十字架の前に立つとは、永遠の命にかかわる選択の前に立つことなのです。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘