力の入れどころ
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」
(ヨハネ15:5)
私たちは、主との親しい交わりのための時間を取らない中で、さまざまな働きをこなしているとするならば、いつか必ずどこかで無理が生じて来ます。
ふと独りなって、「俺は何でこんなに忙しくしているのだろうか・・」と自分の内面の疲れ、また自分と同じように動いていない仲間に対する苦々しい思いで、いつの間にか一杯になっている自分を発見することはないでしょうか。
あのマルタのように・・。
聖書はそんな私たちに、力の入れどころを教えます。
救いを獲得するために良き業をするのではなく、神さまとつながり続け、その交わりのパイプが太くするような方向で力を注ぎなさいと勧めているのです。
聖書は私たち神の子に対して、何と言っているでしょうか。
「信心のために自分を鍛えなさい。体の鍛錬も多少は役に立ちますが、信心は、この世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となるからです。」とか、
「真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くように」(1テモテ4:7−8、6:19)と、「やるべきこと」がキリストにつながり続けることであると説いています。
何故なら、生命線である神さまとの生きた交わりの中に留まらなければイエスさまが約束してくださった豊かな命に与ることは出来ないからですね。
あの放蕩息子の兄のように妬みや悪意や不満ややらされ感で一杯になります。そしていつか爆発してもおかしくないような状態になってしまいます。
何故なら、父なる神さまから離れているからです。ぶどうの木であるキリストの神との関係が途絶えていたからです。
力の入れどころ、それはキリストにつながるところです。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘