羊飼いと羊

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハネ10:11)

 生まれつき目の見えない人がいました。弟子たちはイエスさまに訊ねます。彼の目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか、と。
 それに対してイエスさまは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」とお答えになったのです。
神の業とは愛の業です。そしてイエスさまは彼を癒されました。
 実はその後、彼が癒されたということをきっかけとして、イエスさまを巡って大論争が展開されていきます。
 ファリサイ派の人々は、長年、盲目で苦しんでいたこの人の目が開かれたという恵みよりも、この日が安息日であったということにこだわりました。
そうしたこだわりの強い彼らに対して「羊飼いと羊」の譬え話をなさり、そして今日の御言葉、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と語られました。

 ところで、「羊」とは誰のことでしょう?そうです。この男の人のことです。では「羊飼い」とは誰を指すのでしょう?イエスさまです。
 この男の人を生かすために、良い羊飼いであるイエスさまは自分の命を捧げても惜しくない、と言われたわけです。
イエスさまは、羊にたとえた彼の存在が自分にとっては宝物なのだ、と言ってくださっているのです。
 イエスさまは、ここに出てくる盲目のこの人を、そのように考えておられたのです。
そして、あなたのことも、また様々な弱さを持っている私たち一人ひとりのことも、そのように考え、「あなたは私の愛する子、私はあなたを喜ぶ。あなたは私の宝だ」と、今朝も御声をかけてくださっているのです。
 この神さまに守られて、今日の一日健やかに歩まれますように!

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

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