また会う日まで
「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。』」 (ヨハネ11:25)
以前、「シー・ユー・アゲン−また会う日まで」というトラクトを手にしました。ホスピスで働く下稲葉康之というクリスチャンドクターがお書きになったものです。
その冊子には、40歳という若さで天に召されていく女性が、下稲葉先生と最後に、「また会う日まで」と挨拶を交わして逝った、そのやり取りの様子が記されていました。入院当日、彼女はすでに余命1ヶ月と推定される厳しい状態でした。
医療の限界を痛切に覚えながらも、どうにかして悔いのない人生を全うされる、その一助になればと祈りつつ、下稲葉先生は彼女と関わって行きました。そして、最後にこんな会話を交わしたそうです。
「Tさんは死んでも天国に迎えられる。僕も仕事が終わったら召してもらうことになる。だから、信じる者同志に永遠の別れはないのです。『さようなら』はドイツ語で『アウフ・ヴィィーダー・ゼーヘン』。
これは、『再会を期して』という素晴らしい言葉なんですよ。」下稲葉先生のその言葉に対して彼女は、「それは英語の『シー・ユー・アゲン』ですね。」と応えました。
イエスさまは、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」と言われました。イエス?キリストを信じる者は、神さまの支えの御手を常に確信しながら「死」という巨大な壁を乗り越えて?天の御国へと導かれていくことを確信することが許されていると、はっきりと教えています。
ある人は、信仰の立場から?死のことを「神が、疲れた兵卒を地上からみもとに召集なさることだ」と言っていました。別の人は、病気にかかって死んで行く状況をさして、「神の親切を反映したものだ」とも言っています。
この地上の生涯を終えて天に召されていく時、私たちは、先に天に召された方々と、キリストにあって再会の望みがあることを確認しつつ歩んでいるのです。
いつの日か、上から召集される私たちにとって、その死の時が「神さまの親切の反映」であることを深いところで受け止めるため、毎週の礼拝こそが「大切な備えの時」であり、神さまの用意してくださった「恵みの時」であるのです。
いってらっしゃい
牧師 松本雅弘