おやじさんとよばれた人

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。
人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」 (フィリピ2:6−8)

 私の神学校の1年先輩にSさんというお方がおられました。大きな会社の重役をなさった後、退職して第2の人生をということで、神学校で学ばれたのです。
自分の子どもくらいの年齢の私たちから、「おやじさん、おやじさん」と親しまれ、共に寮生活をされ、卒業後、牧師をされていました。
ところが、日曜日の説教を終えて祈りをしている最中、講壇で倒れ天に召されました。88歳でした。私は何度か、神学校の早天祈祷会やお昼のチャペルで、Sさんの説教を聴く機会がありました。
イエス様のこと、特に十字架を語る時には、いつも必ずと言ってよいほど、感情がこみ上げて来て、言葉も詰まってお話できなくなってしまうのです。キリストの愛に圧倒されておられました。
「ほんとうに、もったいない。この私のために・・」と語って、「神の独り子なるお方が、この私のために、ここまでしてくださったからには、私はどうやってこのお方の愛に報いることができるでしょう! 何を捧げても、足りないくらいです。」
これが、Sさんを突き動かしていた思いでした。葬儀の司式をした牧師はSさんについて「涙をもって、神の愛を深く語る牧師だった」と振り返っていました。

 今日の箇所には、まさに、キリストが私たちのためにいかにもったいないことをしてくださったのか、そのことが告白されているのです。私は、この箇所を読むとき、Sさんのことをいつも思い出し、神様の愛を強く感じています。

 いってらっしゃい

 牧師 松本雅弘

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