問題を抱えた共同体
「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。『神の国は、見える形では来ない。「ここにある」「あそこにある」と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。』」
(ルカ17:20−21)
ジャン・バニエというカトリックの神父がおられます。知的ハンディを持つ人と、アシスタントと呼ばれる健常者たちとが共同生活をするラルシュ共同体運動という、現在、世界に130ほどある共同体運動を始めた方です。日本にも静岡にカナの家があります。
そのバニエ神父が、教会の主にある交わりについて、こんなことを言っておられるのです。彼は「主にある交わり」のことを「共同体」と呼ぶのですが、彼曰く「理想的な共同体とは何なのか? 理想的な共同体とは何の問題もない共同体ではない。何の問題もない共同体があるならば、それは問題が隠れているだけなのだ。
私たちは光と闇を共に持った者であり、当然、各自、問題や課題を抱えて生きている。そうした私たちが集まれば、当然、共同体としても闇もあるし光もある。したがって、理想的な共同体とは、個人が抱えている問題、共同体が抱えている問題、そうした課題や問題と共に歩むことのできる共同体、それが理想的な共同体なのだ」と。
イエスさまが12弟子をお選びになった時に、おっちょこちょいのペトロ、激しやすいヨハネ、疑い深いトマス、また、その交わりにはイエスさまを裏切るユダもいました。
1人ひとりが、それぞれ人間として、光と闇を持ち合わせて招かれました。
そうした交わり、共同体の中で、イエスさまは彼らを御育てなさろうとしたのです。そして、神の国についてお語りになった時に、「神の国は、ここにある、あそこにある」というのではなく「あなたがたの間にあるのだ」と言われたのです。
私たちは、問題のない交わりを「そこ、かしこ」に求めてしまうのですが、そこに、本当の主にある交わりはないのです。ジャン・バニエ神父の言葉を使うならば、「本来の共同体とは、問題を自分たちの問題として受けとめながら、その問題と共に歩み、その暗闇に、いつしか聖霊の光が当たって乗り越える。
また、闇が光に変えられる願いを持ち続けながら歩んで行く。具体的には、人と人とのかかわりの中で、受け入れ合ったり、赦したり、受けとめてもらったり、問題に取り組んだり、謙遜にさせられたり、そうした私たちの中に、神の国が生まれてくる。それこそが共同体である」というわけなのです。
神の国である共同体は問題を抱えた私たちの交わりのなかにあることをもう一度覚えたいと思います。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘