当たり前のことができない
「テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました。」(フィリピ2:22)
今日の聖句の中に「息子が父に仕えるように」と出て来ます。このことは、パウロにとって当たり前のことでした。でも、今の社会において、必ずしも当たり前ではないように思うのです。
ある人が、こんなことを言っていました。
「イエス・キリストを信じるということは、牧師や宣教師となるために仕事をやめて神学校に行くことだけではありません。むしろイエスさまを信じると言うことは当たり前のことが当たり前のようになってくるということです。」と。
夫が当たり前のように妻を愛することがいかに難しいことでしょう。
妻が当たり前のように夫を愛することがいかに困難なことでしょう。
親が当たり前のように子どもを愛することが、いかに難しいことでしょう。
そしてまた、子どもが親を赦し、愛して仕えていくことがいかに大変なことでしょうか。
イエス・キリストが私たちに与えてくださることは、人間が本来、神さまか受けるべき愛や赦し合いや交わりです。それはあまり目立つようなことではないかもしれません。
でも、その当たり前のことがキリストの力によって実を結んでいく時に、人が変えられ、家庭が変わり、地域社会全体が変わっていくのです。
こうしたことは、当たり前のことのようのですが、それが実現するためにはキリストにあって自らが尊ばれていること、神さまに愛されていることを深く経験する必要があります。
高座教会も、この手紙を書いたパウロとテモテ、そしてフィリピ教会の兄弟姉妹が経験したように良き交わりの教会となりますように。また良き模範にあふれる群れとなるように神さまに祈り求めていきたいですね。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘