主の晩餐

「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。
そして、イエスは言われた。『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』」(マルコ14:22−24)

 エルサレムのある家の二階座敷で、十字架の処刑を翌日に控えての「過越の食事」が始まりました。その食卓を囲む者の中に、裏切る者がいることをイエスさまは指摘されたのです。弟子たちは、そんな事をするのは一体誰だろう、という事でザワザワし始めます。
それだけではありません。その言葉をきっかけとした話が、あげくの果てに、「誰がこの中で一番偉いか」という論争まで発展してしまいました。
 イエスさまは、このような人々と共に、食卓を囲まれ、最後まで共に生きてくださった。そのような生身の彼らを食卓へと招いてくださいました。
 主の晩餐は救いを記念する喜びの晩餐であったはずです。でも同時にそれは不完全なペトロやヨハネやヤコブ、ユダまでをも招かれた食卓でもありました。
そのような者のために十字架の上でご自分の肉を裂き、血を流される。その裂かれる肉としてパンである、流される血としてのぶどう液なのだ、と主は言われます。

 教会が繰り返し、繰り返し営んできた主の晩餐は、単なる宴会でも食事でもありません。信仰をもって、聖餐にあずかる者には、聖霊の助けと導きによって、枝がぶどうの幹につながって命を受けるように、キリストとひとつにされる恵みを経験するのです。
そして、聖霊の働きによって、キリストによる過去の救いの出来事が、今の私たちのものとなり、救いの確信をいただく恵みに与かるのです。
 その時を覚えて過ごすこの一週間です。今日、その恵みに心に留めつつ歩みましょう。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

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