主の晩餐

「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。
そして、イエスは言われた。『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』」(マルコ14:22−23)

 ある家の二階座敷で、十字架の処刑を翌日に控えて、過越の食事が始まりました。
その食卓を囲む者の中に裏切る者がいることを主イエスは指摘されました。弟子たちは、そんな事をするのは一体誰だろう、とザワザワし始めたのです。
しかも、その主の言葉をきっかけに、最後には「誰がこの中で一番偉いか」という論争まで発展していったと聖書は伝えます。
 主イエスは、そんな人々と共に、食卓を囲まれ、最後まで共に生きてくださった。そのような生身の彼らを食卓へと招いてくださったのです。
 主の晩餐は救いを記念する喜びの晩餐であったはずです。でも、同時にそれは不完全なペトロやヨハネやヤコブ、ユダまでをも招かれた食卓でもありました。
そのような彼らのために十字架でご自分の肉を裂き、血を流される。その裂かれる肉としてパンであり、流される血としてのぶどう液なのだ、と主は言われます。

 教会が繰り返し、繰り返し営んできた主の晩餐は、単なる宴会でも食事でもありません。信仰をもって聖餐にあずかる者には、聖霊の助けによって、枝がぶどうの幹につながって命を受けるように、主と一つにされる恵みを経験します。
そして聖霊によって、キリストによる過去の救いの出来事が、今の私たちのものとなり、救いの確信をいただく恵みに与かるのです。
感染症拡大のさなか、本当に残念なことに、今は聖餐に与れません。でも主の食卓を囲める日が少しでも早く訪れるように。絶えず主に祈っていきましょう。

いってらっしゃい。

牧師 松本雅弘

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