神さまの喜ばれる礼拝
「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」
(ローマ12:1)
ある日本人がアメリカを旅行しました。教会の前に「モーニング・サービス」と書かれた看板を見つけたのです。
彼は「教会でも、やってるのだ」と驚いたそうです。実は「朝の礼拝」のことを喫茶店の「モーニング・サービス」と勘違いしたのです。
この話を聞いて他人事でないように思いました。本来礼拝は神に仕える時なのに、この旅行者のように、あくまでも私が「主人」で、誰かに仕えてもらう姿勢で礼拝していないだろうかと思ったのです。
もちろん、神さまは御子を与え、弟子たちの足をも洗い、最後には十字架にかかり救いの道を拓くほど、とことん仕えてくださいました。
でも、そうした神の尊い奉仕を知れば知るほど、今度は、私たちが神さまにお仕えする番なのですね。礼拝を「サービス(奉仕)」と呼ぶのはそのためなのです。
デイビッドは貧しい少年でした。着飾った紳士淑女たちの集う礼拝に粗末な服で参加するのに少し気がひけていました。でもイエスさまが大好きで説教を聴くことが楽しみでした。
献金の時になり、献金皿を持った執事が会衆席を回ってきました。すると彼はおずおずとその献金皿を床の上に置いてくれるように奉仕の人に頼み、何とその皿の上に乗ってしまいました。
「神さま、僕にはお金がありません。でも僕自身をあなたにお献げします」と小さな声で祈ったそうです。
彼こそ後にアフリカ伝道に命を献げたリヴィングストン宣教師だったそうです。
礼拝とは、とことん仕えてくださった神さまに対しあなた自身を献げること(献身)なのです。
明後日の礼拝では、ぜひこのことを心に留め、神に仕え献げる心をもって礼拝しようではありませんか!
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘