仕えるほうが幸い

「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。・・・はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」(ヨハネ8:31−32、34)

 今日の聖書の御言葉をじっくりと時間をかけ、その意味を思い巡らしていくとき、ほんとうに大切な真理に心の目が開かれていくように思います。
それは、私たちが「神の子」とされたということは、罪の生活から解放されて自由をいただくことであり、そして、そのようにして与えられた自由を生かし、今度は神さまの御心を行って生きる者とされたことを意味しているということです。
もっと言えば、神さまの悲しむことを悲しみ、喜ぶことを喜んで生きるという生き方です。
この点について、私たちの『信仰告白』は「聖化と恵みにおける成長」という言葉を用いて次のように告白しています。
「聖化とは、神がこの世にあって信仰者を仕える者として聖別されることである」(カンバーランド長老教会信仰告白4.21)
私たちが「神の子」として成熟した大人のクリスチャンとなり、主の弟子としてキリストに似た者になるということを、私たちの教会の『信仰告白』では、「神と人とに仕える者として成長することだ」と表現しています。
ほんとうに幸いなことですが、高座教会のなかには、信仰の先輩たちがつちかってこられた「仕えられるよりは、仕えるほうが幸いだ」という信仰の文化があるように思うのです。
それはまさに、イエスさまが語られたように、与えられた自由を、神と人のために用いて生きる生き方です。これからもこうしたことを大切にしていきたいのです。
神さまや周囲の人に仕えていただくことから、神さまや周囲の人たちに仕える生き方を選びとるにはどうしたらよいのかを、ぜひ、ご自分への問いかけとして、考えてみてください。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA