聖書を人生の羅針盤として生きる

「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(ルカ16:13)

 詩編には、「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても/得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります」(詩編90:10)と人生の「はかなさ」を歌っています。
この地上での短い人生において、成功や出世が人生の目的そのものだとしたら、主イエスが教える、天に宝を積むような生き方はできないかもしれません。
言い換えれば、日々の生活において、信仰を学ぶことが、二の次、三の次になってしまうということです。
でも、私たちは神の子、キリストの弟子として、天に国籍を持つ、神の国の市民です。
ある日、伝道活動で大きな成果を上げ、誇らしげに帰って弟子たちに向かって、イエスさまは次のようにお語りになりました。
「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカ10:20)。
天に国籍のある私たちは、与えられている人生において、いい時も悪い時も、信仰を学ぶ機会、神との出会いのチャンスの時として、様々な時を生かし用いていくことこそ、実は、神の子に与えられている特権でもあるのです。
主イエスは、私たちが天に宝を積むようにと勧めています。それは天につながる生き方こそが賢い生き方だからです。数十年間の仮住まいのこの世において、そこに「爪痕を残す」ことが生きる目的ではありません。
むしろ聖書を人生の羅針盤としながら、神の国の市民として、永遠のスパンにたって富や時間を用いて生きるように、10月9日という今日の一日が私たちに与えられているのです。

 いってらっしゃい。

 牧師 松本雅弘

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