子どもの居場所としての家庭
「両親はイエスを見て驚き、母が言った。『なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。』
・・・しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった」
(ルカ2:48、50、51)
12歳の時、過越祭で上京した少年イエスさまの行動は、両親に心配をかけるものとなりました。
迷子になったと心配しやっとのことで我が子を捜しあてたマリアは「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」と叱りました。
ところが、その後、イエスさまはそれに反発することもなく、一緒にナザレの家に戻り、両親に仕えて生活をしました。
私はこの聖句を読み、イエスさまには、帰るべき家庭(ホーム)があったのだとあらためて思いました。
ナザレの村にあったイエスさまの家庭とは、しきたりや伝統が支配する「家」ではありません。また物理的な建物としての「家(ハウス)」でもないのです。むしろ、イエスさまがありのままの自分で居られる「居場所」としての家庭です。
教育の専門家によれば、思春期の難しい時期でも家庭があれば、その子は必ず戻ってくるそうです。そう言えば放蕩息子も放蕩三昧の生活の後、我に返ったときに思い出したのは、この「家庭(ホーム)」でした。
でも逆に家庭がなくなるときに、子どもたちは「擬似家庭(グループ等)」や「擬似家族」を外部に求めるのだそうです。
ところで聖書を丁寧に読むと「お父さんもわたしも心配して捜していたのです」と語るマリアの姿に、夫ヨセフに対する信頼と子育てにおける夫婦が協力している姿を読み取ることができます。ほんとうに素晴らしいことですね。
今、あなたのご家庭は子どもたちにとってどんなところになっていますか?
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘