聖書の言葉を母国語とする
「彼らは助け合い、互いに励ましの声をかける」(イザヤ41:6)
「自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです」(2テモテ3:15)
大分前ですが、ある牧師が「聖書の御言葉を自分の母国語としてください」と語った言葉を思い出します。その説教を聞きながら〈どういう意味だろう?〉と思ったことを今でも覚えています。
私も幾つかの外国語を習ってきました。文法を学び、辞書の引き方を身に着け、まずは簡単な文章を辞書を引きつつ読み進めます。そのようにして学んでいきます。
でも「マスターしましたか?」と訊かれたら、なかなか「はい」とは言えない状態です。でも羨ましいことに母国語でもないのに、母国語のように外国語を流暢に使いこなす人も結構いますよね。
この牧師に言わせると、今ご紹介したような外国語の学び方では信仰は学べない。あくまでも「聖書の御言葉を自分の母国語としてください」と勧めるのです。
ところで、どんなに流暢に外国語を使いこなす人がいたとしても、魂の奥底にある思いなどは母国語でなければしっくり来ないと言われます。後から身に着けた外国語ではどうしても限界があるからです。
では、どのように母国語を身に着けるのでしょう?それはまさに「母国語」と言われるように、あなたが生まれた時、周囲に両親や家族など本当に親しい人たちがいたことでしょう。
そうした親しい関係にある人々があなたに向かって語り掛ける、その語り掛けを聞き続けた結果、不思議と自然にあなた自身の言葉になっていった。それがあなたにとっての「母国語」ですね。
つまりこれを信仰に当てはめるならば、神さまとの親しい関係の中で、聖書を通して語られる、そのお方の語りかけを聞き続けていくこと。その結果、聖書の言葉があなたにとっての母国語になっていくということなのです。
今日も神さまはあなたに聖書の言葉を通して親しく語っておられます。それを聞き続けてくださいね。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘