苛立ちを覚えることが、あなたにとっての賜物?
「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。・・・」(ローマ12:6−7)
年の初めの長老研修会でT・D・ジェイクス牧師の講演ビデオを観ました。その中でこんな話をしていました。
「教会の働きを見ていて、我慢できないことを見つけたら、それがあなたに与えられている賜物かもしれません。たとえば、整理整頓ができていない様子を見て苛立ちを覚えたなら、神さまはあなたに管理の賜物を与えておられるかもしれません。
音をはずした奏楽や賛美を聴いて我慢できない感情がこみ上げてきたなら、あなたには音楽の賜物が与えられているかもしれません。
メッセージを聴きながら、〈もっと分かりやすい話し方ができないのだろうか。私だったらこうするだろうに・・・〉と具体的に思い浮かぶならば、あなたには教える賜物が与えられているかもしれません・・・。」
あなたは教会の奉仕や働きをご覧になって、「わたしだったら○○○するのに・・・」というような思いを抱いたことはありませんか?
もしかしたら、その奉仕があなたに与えられている、あなたの賜物を生かして用いる「場」かもしれません。神さまはそのあなたの賜物を用いて、今、何かをなさりたいと願っておられるのではないでしょうか。
コロナ禍にあって、私たちの出来ることは限られているかもしれません。今までのように出来ず、新しいアイデアや知恵が求められることでしょう。そうしたことを含めて、一度、神さまに祈って考えてみてはいかがでしょうか?
神さまはあなたを必要としておられますから。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘