み言葉ご自身を愛すること

「その時代に、ベテル人ヒエルはエリコを再建したが、その基礎を据えたときに、長子アビラムを失い、その門を建てたときに、末子セグブを失った。主がヌンの子ヨシュアを通して告げられた言葉のとおりであった。」(列王記上16:34)
 エリコとは、イスラエルの民が約束の地カナンに入って最初に征服した町でした。それも一日一回、町の周囲を六日間周り、七日目には七周回りました。そして祭司たちが角笛を吹いたのを合図に人々が大声をあげた結果、城壁が崩れ落ち、エリコが陥落したのです。  つまりエリコ攻略は、一方的な神さまの御業によりました。それを記念するためにヨシュアを通して語られた言葉が、今日の聖句の「主がヌンの子ヨシュアを通して告げられた言葉」です(ヨシュア6:26参照)。  実は、このみ言葉ゆえに、ヒエルがエリコを再建する前まで、だれもエリコを再建しようとはしませんでした。主を畏れたからです。しかしアハブの時代のヒエルが一線を越え、エリコ再建を果たした結果、み言葉通り彼は二人の息子を失ったのです。  エリコを再建したこと自体が、実は主のみ言葉に対するいい加減さ、それは取りも直さず、主に対する畏れの欠如を表していたのです。  み言葉に対する姿勢が緩む時、実は信仰も緩んでいることを暗に伝えています。  聖書の世界において、言葉は人格の反映です。人は、その人にふさわしい言葉を語るものです。ですから、言葉はその人自身の掛け替えのない一部ですから、私たちは、大切な人からの言葉を心に反復し思いめぐらすわけです。つまり、その人を愛するということと、その人の言葉を愛することは切り離せない関係にあると思うのです。主を愛することは、そのお方のみ言葉を愛することではかられます。 私たちもみ言葉を味わうことで、み言葉御自身である主イエスをいよいよ愛する者へと導かれていきたいのです。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘
発行者名:高座教会 連絡先:info@koza-church.jp 住所:大和市南林間2−14−1

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