主の憐れみ
「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。」(ルカ7:13)
イエスさまがナインの町に行った時、ある母親の息子が死んで、棺が家から担ぎ出され、その葬式の行列が町の外に出るところでした。今朝の聖句は、その時のイエスさまの姿を伝えています。 その時、イエスさまは母親の何を御覧になったのでしょうか。母親の泣きつかれて腫れた顔でしょうか? ここで分かることは、イエスさまとは「御覧になる方」だ、ということです。イエスさまは、傷ついた私たちを放っておくことをなさらないのです。悲しみの現実を知り、私にかかわりを持とうとされるお方です。そしてもう一つ、主は「憐れに思ってくださるお方」でもあります。 実は、今日の聖句にある「憐れに思う」というギリシャ語を、当のギリシャ人は決して自分たちギリシャの神々に当てはめて使うことをしなかったと言われます。ギリシャの考えによれば、何かを見て心を動かされるような神は神の名に値しないと考えたからです。神はどっしりとしていて、人間の状況に左右されない。偉大なる神々は人間の悲しみや喜びに振り回されるような存在ではない、というのです。 でも、どうでしょう?仮に神さまがそのようなお方だとするならば、問題を抱えて祈ることもできないのではないでしょうか。 幸いなことに、イエスさまは、ギリシャの神々のように、人間の状況に左右されない、というのではなくて、あなたの苦しみ、悲しみの現実、罪の重荷に耐えかねているような状態を、憐れみを持って御覧になり、心を動かすお方なのです。そればかりか、その痛みを全面的に引き受けるゆえに、はらわたがかき回されるほどに、心を痛めるお方なのです。それは外でもない、ご自分の十字架の死と痛みを引き換えの憐れみでもありました。このお方があなたの神なのです。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘
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