人の目が気になる人

「もし、今なお人の歓心を買おうとしているなら、私はキリストの僕ではありません。」(ガラテヤ1:10)
 イスラエルの初代の王のサウルは、人の目に自分がどう映るかが気になってしょうがなかった人物でした。ある時、このサウルを王にした預言者サムエルに対して主は次のように言われました。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心を見る」と。この言葉を裏返せば、「サムエル、お前が王にしたサウルは、わたしが心を見る神であることを知っていない」ということでしょう。  主が心をご覧になることを知らないサウルは、人の目に映る事柄に時間とエネルギーを集中する人物でした。その結果、ある時は、神の御声よりも部下の声が気になり、そちらを優先してしまいます。勿論、イスラエルの王ですから礼拝もするにはするのですが、しかし、それも民の前で演じるパフォーマンスだったかもしれません。  こうしたサウル的な生き方を聖書は愚かな生き方と理解します。ある人が語っていました。聖書が教える賢い生き方、すなわち永遠のスパンで物事を捉え、地上にあって神の民として意識的に生きる生き方の対極をなす愚かな生き方をした人物がサウルだと。  ところで私が大好きなこんな言葉が「礼拝指針」に出て来ます。「私たちは人間として、欠乏感に迫られて礼拝することを知っている。私たちは自分自身では満ち足りることが出来ないのであり、造り主と出会い、礼拝することによって、完成と充足を経験するのである。礼拝とは、人間が人間になることである」。  サウルは、神のかたちに造られた人間の心の奥深くにある、造り主なる神しか満たすことのできない魂の渇きを周囲からの評価や賞賛によって満たそうとして生きた人物だったのではないでしょうか。あなたは誰の目の前に生きていますか。
いってらっしゃい。
牧師 松本雅弘
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