私の隣人とは誰ですか

「しかし、彼は自分を正当化しようとして、『では、私の隣人とは誰ですか』と言った。」 (ルカによる福音書10章29節)
 ある先生が成績優秀な高校で講演会の講師をしました。飢餓の救済や人権の保障などの問題を話し、そのどちらも重要なのですといった話でした。次いで質問の時間にある学生が「先生は飢餓の救済も大事だと言いつつ、個人の人権が大事だとおっしゃいました。でもぼくは、飢えている人を救えと言われても助けたいと思わないし、むしろ自分のそういう信念をぼくの権利として尊重してほしいです。それはどうなるのでしょうか」と。講師の先生は「さすが優秀校の生徒だけあって鋭い質問だな」と思いつつ答えました。「いいと思います。その信念は君の人権だし、だれもがその権利を尊重すべきだから、どうぞ飢えた人を見捨ててください」というと、生徒たちがどよめきます。しかし続けて「ただし、君が飢えに苦しんでも、ぼくは君の信念を尊重して、けっして助けに行きません。助けると君の信念を、つまり人権を侵害するからです」。しかし、もう一言。「それは困ると考えるようになったらそう言ってください。助けに行きます」と。その先生の言葉がその学生にどのように受け止められたかは分かりませんが、年月が経ってから受け止め方が違っていったのではないでしょうか。 新約聖書には、イエスさまが「隣人を自分のように愛しなさい。そして、それを実行しなさい」と青年に言われた話があります。ところがそれを聞いた彼は、「私の隣人とは誰ですか」と聞いたのです。彼は隣人を愛するということができない人でした。そこでイエスさまは「善いサマリア人の話」をしたのです。その話に出てくる祭司やレビ人は、追い剥ぎにあって怪我をして倒れている男のそばを、見て見ぬふりをして通り過ぎていきました。祭司やレビ人は神様を愛し、神様に仕えている人たちです。しかし目の前に倒れている人に手を差し伸べることをしない、隣人を愛することができないのです。ところが日頃は見下されているサマリア人は、近寄って介抱しました。倒れている人の隣人になったのです。隣人を愛するとは、隣人になることです。「隣人とは誰ですか」と聞く青年に対して、「あなたが隣人になりなさい」とイエスさまは教えたのです。
《祈り》創造主なる神さま、あなたは人が一人ではなく、多くの隣人と共生して生きていくように人を造られました。私の隣人に制限はありません。ある人は隣人で、ある人は隣人ではない、という制限はないのです。この私が、すべての人の隣人となれますように。
牧師 和田一郎
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