文脈

「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。私は敵対させるために来たからである。人をその父に 娘を母に 嫁をしゅうとめに。こうして、家族の者が敵となる。」 (マタイによる福音書10章34-36節)
 カフェで二人連れの女性が話していた声が耳に届いた。やけに「ダイク」という言葉が出てくる。二人はベートーヴェンの交響曲「第九」と「大工」のイントネーションについて話していた。「私、音楽の『第九』のほうは、『ク』にアクセントを置くようにしてるわ。」「うーん、そうねえ。『大工』のほうは、『ダイク』ってわりに平らに言うわね。」二人はなんども「ダイク、ダイク」と発音している。「やっぱりわかりづらいなぁ。」「あとは、文脈から判断するしかないわね。」大工さんとベートーヴェンの交響曲が同じ一文に入るってどんな時だろう。「大工さんは第九が好きだ」という感じだろうか。しかし「文脈で判断する」というのは聖書の読み方と同じです。聖書も「文脈」で理解することが大切です。 今日の箇所にはイエスさまが「平和ではなく剣を」「私は敵対させるために来た」と、イエスさまがおっしゃったとは思えない言葉が並びます。これを字義通りに受け取って「キリスト教があるから平和が来ない」「家族を大切にしない個人主義だ」と間違って解釈することもできるのです。しかし文脈で理解するために続く言葉を見ると「自分の十字架を取って私に従わない者は、私にふさわしくない。(マタイ10:38)」とあり、そこに真意があります。私(キリスト)に従うにふさわしい人というのは、自分の十字架、つまりキリストに従って自分の使命を生きる人たち、キリスト者のことですし、その集りが教会という「神の家族」です。地上の血縁の家族にも衝突があります。たとえば遺産相続においても奪い合いがあり敵意が生まれ、敵対関係が生じるのです。しかし、イエスさまは血縁の家族以上の、永遠に繋がることができる「神の家族」という繋がりをもたらせて下さいました。ですから血縁の家族というしがらみを、いったん剣で断ち切り、自分の十字架であるキリストに従い「神の家族」となれば、それは永遠に変わることのない平和をもたらすのです。その繋がりとは、特定の血縁の家族に限らず、全世界の人々に開かれた繋がりです。そうであるからこそ、世界を平和へと導くことが可能になるのです。聖書は文脈を大切にして読むことで、真理を正しく受け取ることができるのです。
《祈り》主よ、私の友人は「キリスト教は唯一の神しか信じないし、個人主義だから争いがあるのだ」と言います。しかし主は、神を愛し、隣人を自分のように愛せよと宣言されました。この教えを守れない私たちが争いを生んでいます。主よ、憐れんでください。
私が悩み迷ってしまった時、いつも聖書を頼りにしていました。最初に開いたページから御心を受け取ろうとしていました、しかし、それはおみくじを引くような間違った聖書の読み方だと知ったのです。聖書を通読できるように支えてください。
牧師 和田一郎
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